2010.11.09

建設的世代論

の必要性についてこの2,3日考えていた。きっかけは、積読状態だった毛利嘉孝さんの『ストリートの思想』を読んでいた時に改めて感じていたことである。

僕はCultural Studiesのメッカの一つであるGoldsmiths Collegeで、なおかつCultural Studiesの中心的な研究者と見なされることも多いDavid Morleyに師事していたこともあるので、それなりに日本の文化研究の行く末に関心がある。僕が留学していたときに確かEast Londonで開催されたCultural Studiesのカンファレンスがあって、友人がそこに参加していたのだが、彼から聞いた話によるとイギリスでも1968年を経験した世代とそれ以降には世代差が生まれているらしい。

毛利さんの本を読んでいて感じたのは、これって日本でも同じ部分があるんだろうなと。『ストリートの思想』は、日本の1990年代論と言えるんだけれども、同じ1990年代を生きた人間としても共有できる部分とできない部分がはっきりと出ていたんだと思う。そもそも論として、左翼の変質とストリート・カルチャーの関係性に入り込めない部分がある。というのも、僕はバブルの恩恵すら味わっていないあの本であればロスジェネ世代であって、1990年代仮に左翼性を帯びたカルチャーであっても、それを消費主義的だとすら感じず、いわば他の商品と同様、貨幣と交換するいささか不可解な商品として消費していたからである。

だからあの本が良いとか悪いとかでは全然なくて。今まで、社会学関係の議論を聞いていて、これって世代差の問題あるよなあと感じていても、それを理由に議論が噛み合わないことを認めてしまうのは全く不毛なので、議論の変数として世代差をあまり僕は重視してこなかった。けれども、ある側面においては徹底的に世代間のズレが生じていることを前提に議論を進めることは必要なんだなと認識を改めさせられている。自分のなかで積極的に「建設的」世代論を意識してみようと思ったのは、初めてかもしれない。

ただこの世代感覚のズレの重要性は、必ずしも時間的なズレにあるのではないと思う。文化の問題を考えている時一般に、同時代であっても対象に対する「面白がり方」が違う人って、結構議論がズレたり、そこに面白い問題があったりするんだけれども、この「面白がり方」を媒介するものの網の目の中に「世代」を改めて位置づけてみることの必要性に僕は関心を向けているのだと思う。実は、日曜日にレクチャーが最終回を迎えたTokyoArtSchoolで感じていたのも、ある世代感覚が共有されていて、そこにコミット出来る人と出来ない人では大分印象が変わってしまうものなのではないかと感じていたせいもある。こういうことを考えれば考えだすほど、ハーバーマス的な合意に到達するのは困難だなあとか思ってしまう(苦笑)。

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