2011.01.14

放電人間が避難について考える

祝研究日。実質今週がフルに働いた最初の週なので、少し疲れた。寒さもさることながら、今朝は空気が乾燥していて、ドライヤーで髪を乾かそうと思っても髪が静電気のせいで全然まとまらない。正月早々日本各地で静電気の火花を飛ばして歩いている。

一昨日職場で『完全避難マニュアル 東京版』についての研究会が開催されていた。そこで話を伺いながら感じていたことをつらつらと。Port Bの高山さんが仰っていたことは、基本的に共感できるなあと思っていた。つまり、演劇という極めて閉鎖的で小さな社会空間のなかで仕事をすることの息苦しさと、制度化された演劇と演劇的なるものの「本質」の位相を区別し、後者をもう少し広い社会のなかで実験していくこと。これは、大筋で僕がこの数年「アート」なるものについて考えていることに近い。

ただ、そこでやはり僕がこの数年抱えているジレンマに向かい合うことになる。つまり、もしも演劇界でエスタブリッシュされた人間が、例えば風俗業界で、情報産業の領域で演劇的なるものの実験をしそこから何か生まれたとしても、具体的には高山明がその実践を行うことで、演劇「界」(今度は一般的な意味ではなく、ブルデュー的な意味での)へと結局は回収されてしまうことになる。だから、演劇やアートが社会に出ていくことを諦念せよという話ではもちろんない。加えて、今回であれば濱野智史さんという外部が、その実践に対しての批評的な言説を構築していことは大切だし、恐らく僕のような研究者がこの実践に対して何かを発言していくことは大切なのかもしれない。これは今回書こうと思っていたこととは違う話だが、僕は社会科学よりの視点から「芸術」と付き合っていくために、発言の機会は基本的に断らないけれども、公開の場では個別の作品について話すことを避けるということをかなりコントロールしてきた。作品論、作家論に迂闊に踏み込むとせいぜいニ流の美術批評にしかならんと思うからだ。単純に、批評家ほど作品を見ていないし、見る意欲も体力もないという時点で資格を既に喪失していることもあるし。ただ、かなり綱渡りで職人技を要求される気はするが、だからこそ美術批評とは違う文脈の中で作品論を書くことの可能性を自分のなかで再考する必要性があるのかなとも思っている。

もう一点感じていたのは、今の職場だと舞台芸術や演劇をどう社会に開くかという議論はかなりあるのだが、逆についてどこまで考えられるだろうか。つまり、社会において「演じる」ということの意味である。僕は不勉強なのであまり体系的に論じたものを目にしたことはないが(きちっと探したこともない)、近代に人々の半数以上が都市を生きるようになって以降、恐らく歴史的には継続的に社会において「演じる」ことについて論じられてきた。例えば、20世紀初頭のジンメルがそうだし、1960年代のゴッフマンもそうである。演じるという行為に照準しているかは別として、シェリー・タークルあたりの初期インターネット論なども関係性を持っているのではないだろうか。今は、博士論文でいっぱいいっぱいなので手が回らないけれども、演じることと言う視点‐それは多分actingではなく、being somewhat other personだと思うんだが‐から、もう一度、日常生活の空間を見直してみたいという気にもさせられている。高山さんが、演劇には本当に権力がないとか、社会的プレゼンスが低いという発言をなさっていたが、かなり怪しい応答をすれば、それは僕らのだれもが「演じる」ことに対してかなり習熟しているからではないだろうか。音楽のパフォーマンス、絵画や彫刻といった作品を生み出す身体的な行為と比較したとき、演じることはあまりに都市社会を生きる私たちに刻み込まれた行為だからではないだろうか。

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