2012.05.03

ケータイに賭けられた未来

昨日仕事の合間に自宅でケーブルテレビを見ていたら、丸一日かけて『東のエデン』のTVシリーズ、劇場公開作品2作をまとめて放映していた。別件でも最近『未来日記』を見終えたところでもあったので、2000年代後半のアニメに描かれたケータイを巡る想像力についてぼんやりと考えていたのである。

まあ一応GWなので、少し仕事意外のことをしようと思っていて、家で時間がとれるときには最近『未来日記』も見ていたという経緯があって。両方ご覧になった方には分かると思うのだけれども、両者とも主人公は自身の、そして世界の未来を「ケータイ」に賭けていたのである。

話は両者ともそりゃないだろ的な話で、『東のエデン』の主人公はもう人生上がったおっさんからいきなり100億円を使う権利のある「ノブレス・ケータイ」を渡され、その資金を元に、他の10人の「ノブレス・ケータイ」所有者との間で最も「世界を救える」存在にならなければ殺されるという設定。こちらの監督は、ネット世界を描くのは上手いプロダクションI.G.の神山健治さん。一方で後者の主人公は、ある日突然自分の空想していた世界にだけ存在していたはずの神から未来が自動的に書き込まれるケータイ(これを未来日記と呼ぶ)を渡され、他の11人の日記所有者(それぞれの日記には記録の仕方や記録の内容に違いがある)を全て殺して生き残らなくてはいけないという設定。基本的に、確かに多少は望んだかもしれないけれども、いきなりそんなゲームに巻き込まれてもという不条理な世界。

両者を見ていて、ケータイって情報端末というよりは、個人の精神的な輪郭のような存在として認識されているんだなあと。より未来日記の方がその傾向が強いと思うけれども、両者で描かれるケータイって、1990年代前半のサスペンスドラマにありがちな、情報を取得する端末としてではなくって、ほとんど所有者の世界(観)そのものなんだよね。前者は確かに、互いの動きを察知するための情報端末としての位置づけは強いんだけれども(各ケータイ所持者の所持金の利用履歴がお互いに通知されるため)、記憶を失った主人公にとっては、実はケータイの履歴それ自体が、自身のアイデンティティを確定させる貴重な資料になっている。これは、僕らの日常生活でもある話で、ケータイの端末を買い換えても、古い端末を保存する人は多いはず。これは、ケータイがただの情報端末だったり、記録端末ではなく、メールのやりとりや通話履歴そのものがある種の日記として内面化されていくからだと思う。いわば持ち運べるライフログでもある。一方で、未来日記の場合には、その日記の特性(自身の周囲のことだけしか予知しないとか、テロリストは自身の逃走経路だけが予知される)そのものが、その所有者の人間性を反映しており、ケータイを破壊されるとその所有者自身が消滅してしまうという意味では、ほとんど分身としての位置づけがなされている。

その上で、(もしくはだからこそなのかもしれないが)両作品の主人公ともに自身の未来をケータイに賭けているのである。ケータイを通じた情報に基づいた自身の選択が、自身の存在を保証するのであり、前者は最終的なゴールが「日本社会を良くしなくてはいけない」、後者は「次の神にならなくてはならない」という意味で、ケータイそのものが、世界の未来の賭金へとすり替えられていく。しかしながら、よくよく考えてみると、このケータイを通じたサバイバルゲームに参加しているのは、両者ともに10人強であり、本来的には電話やメールを通じて不特定多数に接続することが可能なケータイを肌身離さず持ちながらも、ケータイは極めて限定された人間関係の象徴としてしか機能しておらず、それ自身が「世界」とベッタリ貼り付くという非常に不可解な「世界」の設定がなされてもいる。それ自身は特に驚きではないのだけれども、それがある種受け容れられる世界観である僕(ら?)の感性自体はもう少し問うてみたいとは思う。

前者の放映は2009年の4月~6月(TVシリーズ)。後者の掲載(原作はマンガ)は、2006年3月~2011年2月なわけで、上述の話は基本的には2000年代後半のケータイへの想像力を反映しているのだと思うけれども、その点からするともう少し技術的にも関心を持った点がある。それは、スマートフォンの普及によって、もはや電話はテクストメディアなのか音声メディアなのか視覚メディアなのか分からない「ケータイ」そのものでしかないはずなのに、この両シリーズでは、原則情報はテクストでやりとりされている点だ。前者の他のノブレス・ケータイ所有者の情報は全てテクストで来るし、後者の未来日記の情報も原則テクストで入ってくる。冷静に考えるとテクストメールを送る以外、メモとして長文のテクストを打つ習慣が、2000年代半ばのケータイ利用者に共有されていたのかが僕は分からないし、そもそもある種ケータイにここまで限定してテクストメディアとしての機能を植え付けているのに、それが受け容れられている点も僕は面白いなあと思って見ていた。

作品としては両方とも良く出来ていて(前者はある種の社会風刺として、後者は完全な娯楽作品として)、一視聴者としては面白かった。ただ、恐らく「あしたのジョー」だったり「ガンダム」シリーズのような、何度見てもそれなりに味わいがある作品にはならないのかもしれないなと。ある時代特有の技術に対する感覚が投影されていて、10年後、20年後に見ると共感できないのかもと思う。これはまあ、10年後に『電脳コイル』をどう見るかという話とも関係するのだけれども。いずれにせよ、僕はケータイに未来を賭けるのはご免蒙りたいものである。『ユリイカ』さん原稿依頼下さい(笑)。

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