2012.10.10

コレクションの有限性を認めること

今週に入ってから立て続けに、僕の研究からすると目を留めてしまうニュースが。一つは「ロスコの名画に落書き事件」であり、もう一件は「博物館収蔵もう限界」問題である。両方とも社会的には問題なのだろうが、僕は記事で描かれた水準で議論を続けても根本的な問題には到達しないと思う。

まず、誤解を生むのが嫌なのではっきりと前提を冒頭に記載するけれども、僕も可能なのであればなるべく多くの文化財をなるべく完全な状態で保存することに異存は無い。ただし、両者ともに示しているのは現実にはそうならないし、そうすることもできないということである。それでも理想を追い求めるのであれば、公的な資金ではなく身銭切って頑張って下さいとエールを送るぐらいしか、僕にはサポートのしようがないのが現状だろう。

先に栃木県の収蔵庫の件だけれども、これは新聞の記事で出てきた問題は氷山の一角で、日本でも大抵のミュージアムは収蔵庫足りない問題を抱えているのではないだろうか。これには一つだけはっきりとした答えがあると僕は思っていて、無限のコレクションを抱えることは無理だということだ。僕はこの点に関しては同じようなことをいつも言っているのだけれども、時間が不可逆性を持つという前提であれば、確率ゼロではない限り、一定の確率で良いアーティストが生まれ、一定の確率で良い芸術作品が生まれる(単純化するため対象を美術館に絞ったが)以上、時間が経過すればするほどコレクションが増大するのは明らかである。一方で、現在の日本の税制と予算編成を前提とする限り、時間が経過すればするほどコレクション維持のための予算が増加することはあり得ない。つまり、どう考えても記事が指摘する「文化的価値」を錦の御旗としても、無限のコレクションを維持するのは不可能なはずである。僕はこの問題の根幹の一つには、コレクション形成の「ポリシー」の不在の問題があったのではないかと感じている。ミュージアムは元々当該社会の文化財全てを保存するのが目的ではなかったはずで、各館個別のポリシーのもとで最良のコレクションを形成するのがミッションだったはずである。その意味では、量が質に優先するというポリシーを採用している館であれば、増え続ける文化財を収蔵する必要があるが、有限の予算(人的、経済的、今回は空間的)のなかでコレクションの質を高めていくことこそが本来的なミュージアムのあり方と考えてみることも大切なのではないか。どちらかというと、ミュージアムを十把一絡げにして、全ての館が文化財を永遠に維持し続けるというコンセンサスがとれていると考えられている状態の方が、僕にとっては不気味である。

既に長くなっているのでロスコの件には手短に言及するに留めるけれども、仮にきちっと保存していたとしても、このような突発な事件によって文化財の「死」が訪れることもある。質が違うのは重々承知しているけれども、昨年の震災のように、火事、地震、竜巻、津波といった自然災害によっても文化財はその一生を終えることがある。既にあるミュージアムにおいてもコレクションのなかに残すべきコレクションの優先度は存在しているはずで、もしこのような突発的な事件を迎えたとき、ただ大量に乱雑にコレクションが形成されていたとすれば、優先して残すべき文化財にすら緊急時の限定された予算と人的資源の投下が妨げられかねない。その意味でも、何でもコレクションを受け容れていくという発想には僕は無理があると思う。どちらかというと、今回の話は現場や文化政策との接点での話のように書いてしまっているけれども、僕はコレクションの問題は、本質的には「文化の豊かさ」を規定する枠組みのせめぎあいの問題だと考えていて、この点での議論を日本では充分には経験していないままに現在を迎えていることも根深い問題なのではと感じている。

まあ、この日記は学術的な論文を書く場ではないので、詳細に関してはまた学会やシンポジウム等で話す機会があれば改めてまとめてみようと思う。

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