2013.02.02

Lost in translation, but so what?

というわけで、もう一週間かという感じだけれども、先週留学時代のフラットメイト同士の結婚式でインドネシアのスラバヤを訪問することになった。そのときにぼんやりと思っていたことを。

初めて東南アジア、しかも今まで少し高くても乗り継ぎを回避してきたので、初の乗り継ぎということもありそれなりに緊張してスラバヤへとは向かったのだった。乗り継いだスラバヤのジュアンダ国際空港を降りると、出口で新婦のご両親が準備してくれたドライバーが待っており、直接ホテルへと向かうことに。ホテルについたのは21時過ぎ。ホテルから新郎に電話をすると、より中心部のホテルで両家の家族、僕ら3人のベストの友人でもあるタイから友人も含め会食中とのこと。丸一日移動の疲れも気にせず、ホテルでタクシーを再び呼び、夜の10時過ぎに数年ぶりの再会を果たすことになる。

夜の街をタクシーの窓越しに眺めているとき、いつも何気なくソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』を思い出す。僕はほとんど海外を訪れるときは一人のせいもあるけれども、一度乗ってしまうと限りなく個室に近いタクシーから、車窓を眺めると強く自分が「よそ者(stranger)」であることを感じると同時に、車窓の外側の世界も「何かよそよそしいモノ(something strange)」のまま、リアルに自分に迫ってくる感じが好きなのだ。多分、この世界と僕を隔てるガラスの窓一枚は、僕が思っているよりもずっと多くのことを翻訳している/しそこなっている。

もう一点、先の映画を思い起こしたのは、僕自身が異国で比較的伝統的な結婚式を目撃していたことも関係していたと思う。ロンドンに留学していたとき、何のテーマで取り上げたのかは忘れたのだけれどもあの映画を論じたことがあって、DVDを自室で見ながら、まだ少女のスカーレット・ヨハンソンが日本の伝統的な結婚式に偶像遭遇したシーンがゾクッとくるぐらい綺麗だったのが強く記憶に残っている。日本の結婚式に今遭遇してもまあそうそう足も止めないし、日本であの映画をみたときにはほとんど記憶に残っていなかったシーンだったことに軽い驚きを感じたのである。僕自身が、異国文化に半寄生する状態に慣れ始めたことで、初めてあのシーンを異化することができたのだなと。

まあ、そもそも新郎がイタリアから来ている点で、もはやスラバヤの現地の方にとっても少し翻案の入った式ではあったのだろうけれども、僕が見ていた式とは、違う式が映っていたのだろうなあとは思う。まあ、素朴に現地の人であれば、普通に入っていける式の参列者の参加型の手順には上手く入っていけなかったし。まあ、あとこれはもはや字義通り「翻訳」なわけだけれども、二日間の全ての手順が現地語、英語で紹介されていた。

式の最後に、本当に新郎新婦と親しい40人ぐらいの友人が集まっていわゆる二次会を開催したわけだけれども、そこでも何とも言えない感覚だった。スラバヤ自体はまあ東南アジアの大都市、そこでどちらかというとオランダ植民地時代のテイストが残る洋館風のホテルのなかのバーに集い、分かっているだけでインドネシア、マレーシア、タイ、アイルランド、イタリア、日本からきた面子が完全に英語だけでやりとりしている空気があまりに自然だったのも僕にとっては非日常でもあり、心地良くもあり。

そして最終日に思ったのだけれども、成田を出て成田に戻るまで全て英語で何の不自由もなく過ごせてしまったと言うこと。もちろん、新郎新婦や久し振りに再会した友人はロンドンであったわけで、英語でコミュニケーションを取るのは当たり前だったのだけれども、ホテルでは当然英語が通じ、繁華街でも人を選べば必ず英語が通じ苦労がない感じがかなり非現実的な感覚で。都市をどう経験しているのだろうといささか当惑を覚えたと同時に、改めてそれがあの映画で描かれていたにもかかわらず、僕自身の印象としては留学前にはむしろ失われていたものなんだろうなと。都市を快適に経験出来ていると同時に、日本語しかできない状態でスラバヤを経験する以上に、何か都市の上澄みだけを経験している自分のことを考えざるを得なかったというか。という今回はエッセイ調のポストをお楽しみ下さい。

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