2014.08.15

お盆詣では美術館

かなりブログはサボっていました。6月、7月は本当に公私ともに忙しく、まとまって文章を書く時間がなかなかとれなかったのです。大した文章は書いていないのですが、このブログの更新ですら、かれこれいつも30分以上かかっていますので。ということで、久し振りに昨日一日で足を運んだ、展覧会+αなど。

12:00~14:40 東京都写真美術館 「まなざしの詩学」

フィオナ・タンは、僕ですら学部生の頃からずっと大きな映像系の展覧会で断片的に見てきた記憶があったのですが、まとめて見たのは初めてだったかもしれない。実は、彼女のアイデンティティーについては、あまり今まで意識したことはなかったのですが、スクリーニングで上映されていた《興味深い時代を生きますように》は本当に良かった。50分の作品なのですが、現代社会を生きる人々が背負いうる、「南/北」、「歴史」、「家族観」、「(personal)ディアスポラ」「民族」、「宗教」、「ハーフであること」といったアイデンティティーに関わるほぼ全てがそこには凝縮されていました。説明すれば出来なくもない気がする一方で、安易に言葉にすることを阻むやるせなさと希望を同時に含む感覚があります。

僕はたまにキュレーターや学芸員が口にする「現代美術の作品は社会の最前線で起きている変化やそれに伴う衝突を反映し、さらにはその作品のメッセージを通じたコミュニケーションを通じて社会を変えうる」というようなニュアンスには全く共感のない人なのですが、この作品は社会を変えうるかもと思いました。ただ、僕は美術の研究者ではないので、「アートは社会を変える」と言うときに、「アート」が「営みとしてのアート/作品としてのアート」なのかだったり、「アートは○○なので、社会を変える」の○○の部分が一体何なのかといった、美術業界では許されるような早上がりのフレーズのなかで何が省略されているのかについては、引き続き慎重でありたいと思っています。ただし、それでも単一民族だと考えがちで、ドメスティックな空間に閉じこもりがちな日本人にとっては(私も含めて)、他者への想像力を涵養するうえで貴重な作品だと感じました。

展覧会自体もかなり作品数を絞ってくれたので、ヴィデオ・インスタレーションの展覧会としてはかなり見られる部類の展示で、長い作品をはっきりとスクリーニングに切り出したのも好感を持って受け入れています。

15:20~16:50 東京国立近代美術館 「ヤゲオ財団コレクション」

こちらは基本的に作品自体が面白いと思えるか否かそれだけです。きわめて、日本のオーソドックスな現代美術の展覧会ですので、企画それ自体ですごく面白いという類いの展覧会ではありません。このコレクションを見出したとか、上手く借り出して展示に結びつけたとかそういった学芸員の努力は美術館のインサイダー的な感覚としては、粘り強く準備なさったんだろうなあとは思いますが、それは来館者が気にする必要がある点ではないので、中国語圏の近代以降の作品に関心が持てたり、今までまとまって西欧の現代美術の作品と向き合ったことが無い方には面白いだろうと思います。

キャプションでは書ける文字数に大分縛りがあることもあって、あえてコレクターの役割と美術館の関係性といった文脈を展覧会の前面に押し出す必要があったのかというのは、僕は少し考えさせられました。入口、もしくは導入の大きなパネルでの説明に任せて、個々の作品のキャプションにまでその文脈を引っ張るのが、僕はくどかったです。あと、一室目のヤゲオ財団の説明をしたパネルのフォントははっきりと小さすぎます。展覧会のフライヤーのデザインでは文字のフォントが大きすぎると普段苛立っているでしょうから、同じ配慮を来館者にも求めたくなるよなあと。

むしろ2階の「美術と印刷物」は素晴らしい展示だった。これはもう見て下さいとしか言わないです。多少見る人は選ぶと思いますが、展示品自体の地味さからすると、あれだけ楽しめたのは、企画がきちっと練られている証拠だろうと思います。あと相変わらず、コレクション展も素晴らしかった。大分現代も増えてきたなあという印象。

17:30~17:50 エスパス・ルイ・ヴイトン 「スティーブ・マックイーン」

特に無し。字幕ぐらいつけてやればいいのになと思いました。結構聞き取りづらかったですし。お金もあるでしょう、ルイ・ヴィトン。仮にそれが作者の意志だったとしても、字幕あって良かったんではないかな。

19:00~20:30 東京芸術劇場 「睡眠」

とりあえず、年に一回ぐらいはダンス見ておくかと言うのが一点。のと友人が最近、佐東利穂子さんが良いと書いていたので、一回見ておきたいというのもあって芸術劇場へ。ダンスの善し悪しが分かるほど見ていないのですが、舞台の(造形的な)構成は素晴らしいと思いました。舞台が書き割りであると同時に、奥行きが表現されるという二重の構造をはっきりと利用したうえで、比較的低廉な素材でシンプルな形でありながらも、幾何学的な構成が上手くなされていたと思います。もう少し言うと、書き割りは平面という意味でもあるのですが、垂直平面と床である水平平面の二つの平面構成と、奥行きが上手く利用されていたという印象を持ちました。ただ、前に座っていたおじさまがかなり頭の大きな方で、なかなか見づらかったのだけが残念でありました。昨年今年と勅使川原しか見ていないので、そろそろ違う人でも見に行こうかなと。久し振りに黒田育世さんとか。

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