2017.08.20

札幌国際芸術祭訪問記

純粋な日記としては本当に久しぶりの更新。さて、8月のお盆休みを使って開催初週の札幌国際芸術祭に足を伸ばしてみた。普段は調査出張で1泊2日の強行軍で芸術祭を体験しているのだが、今回は旅行で2泊3日のんびり過ごしたことで、今まで見えなかったこともあるのかもしれない。

過去の自分と対面する

今回メインの会場と呼べるのは、芸術の森、モエレ沼、札幌市内の3ヵ所。全体の印象として感じたのは、小ぶりのメディアアートの芸術祭という印象。まず、芸術の森について触れると、ここが唯一Fine Artを展示してますという体の会場。音をテーマとしたアートに関心があれば、誰もが知っている鈴木昭男、刀根康尚、クリスチャン・マークレーの作品が展示されているけれども、実際にはクリスチャン・マークレーの回顧展と言っても良い仕上がり。僕は彼の作品は好きで、《The Clock》なんかは作品のドキュメントも購入しているぐらいなので、彼の作品群は素朴に良かった。特に、2005年に僕もかかわっていた「Variations on a Silence」の作品群は、ホワイトキューブで展示されるとこう見えるのかという新鮮さと、12年前の若いころの苦労の記憶が蘇り、展示室でやたら感嘆の声を出してしまい、監視員の方には悪いことをした気がする。

同じ芸術の森会場だと、ボアダムスの作品は普通に良かった。特にこれからアートを好きになってくれるような若い方はこういう作品から入ってくれると良いなと思う。ノリとしては、チームラボ的な作品でもあるのだが、それでもリラックスできるのは間違いない。毛利悠子さんの作品はいつも通りだけれども、前回の2014年に比べると、作品とそれが設置されている場所の必然性は感じるというか、こちらもお子さん連れには良い作品じゃないかなあと。インスタ映えするスポットでもある。

毛利悠子さんの作品@札幌市立大学

芸術祭と余暇社会学

一方モエレ沼は、基本的に作品群は公園内の文化施設に集められている。ただし、公園自体の雰囲気が良いし、むしろ作品のなか、もしく設計された空間に入っていく印象が強い展示会場なので、モエレ沼を体験する一環の一つ感は強かった。ターンテーブル系の作品以外は、とにかく良く分からないものが数多く展示されているというのが、多くの来館者が抱く印象だろうなあと。最後の部屋の久保田先生のチームの作品は綺麗だし、僕は好きだけれども、多分この作品がどういったロジックで動いているのかなどは、全然気づかず部屋を後にする来館者が大半だろうと。ここは、調査出張で訪問した場合とはかなり印象が違っただろうという会場で、これ日程タイトだったら、なんでこんな遠いところに来なきゃいかんねんと思うような場所なんだけれども、旅行で訪れたことで公園自体(まあ、芸術遺跡みたいな場所だから)を楽しめるし、ソフトクリーム食べてのんびりみたいなことができる場所になる。今回は公式ガイドブックがマガジンハウスから先行販売されていたけど、芸術祭をアート作品や展覧会の(美的な)質だけで語ることの不毛さを考えさせられる会場だとは思う。

これは、「観光として語れ!」という強い意図があるわけでもなくて。というのも観光という言葉を使うと一般的には産業的な視点に寄るので、すぐに地域への経済効果、そして来館者数、滞在日数、1日あたりの消費額といった諸々の数字へと還元しがちだけれども、そうではなくて、もう少し日常的な私たちの実践に寄り添った、余暇社会学や観光人類学的な視点でその本質を探る道と、美術批評的な言説が生産的に接合できるような可能性を探るべきだというニュアンス。

松井紫朗さんの作品@モエレ沼公園

東北以北の芸術祭とポスト/コロニアリズム

そのうえで札幌市内。こりゃあ、もういつもそうなんだけれども、別府もあいちも市内の展示会場回るのは本当に面倒。面倒だけど楽しいんだよね。これはもう、大人のスタンプラリーがなかったらコンプリートできないよ…。はっきり書いてしまうけど、いかなる地域的な文脈があろうと、500m美術館は退屈だった。市内を一日中回ってそれなりに疲労した状態で、あの距離を歩いたまま鑑賞するという来場者の状況を想像したうえで、あれだけハイコンテクストな展示にしたのだろうか?

一方で僕が勉強になったのは、札幌駅直結のデザイン史を振り返る展示会場。札幌は市立大学の編成などからも分かるように、メディアアート、デザインに特化するかたちで文化振興を進めている側面もあるのだけれども、それでもデザイン史を書くことが、地域史を書くことになりうるという気づきはとても刺激的だった。これは、他の地域でも可能なのかという問題はあるけれども、少なくとも札幌、もしくは北海道については可能性を感じた。札幌国際芸術祭や初回以降どうなったのか追えていない十和田など、東北以北の芸術祭は、美術批評的な文脈で言うと、日本国内におけるポスト/コロニアリズム的な議論と接続しやすい、東京やあいちとは異なる地政学的優位性があると思っているんだけれども、そのあたりともかかわってくる展示。この点については、普通に見せていたけど、資料館の木彫りの熊群もそういった観点から論じることはできると思うんだけどね。こんなことを考えたのは、友人の山本さんの論稿を拝読していたからだろうなあ。一言お礼を申し添えよう。

札幌デザイン史年表@JRタワー

日本における芸術祭の再/序列化の必要性

さすがに美術関係者ほど回ってないにしても、それでもアートを専門としない研究者としては、僕は横浜トリエンナーレの初回からかなりの数芸術祭を見ているとは思う。そのうえで今回改めて感じたのは、きわめて日本的な祭りが生まれつつあるということ。この手の地域振興として街なかに拡がっていく芸術祭は、2000年代の後半には別府のような小規模自治体に限られるのかなと思っていたのだけれども、昨年のあいち、今年の札幌と、地方とはいえ軽く100万人を超える人口を抱える大都市が地域性を拡大させていくことで、いわゆる西欧圏のビエンナーレ文化とは異なるなにかを、この15年日本では作り続けてきたのだなあという肌感覚を強くした。と同時に、これはこれで良いのだと思う。

ただ一方でもう一つ頭をよぎったのは、みんなこの方向で行くと、国際的な芸術祭のサーキュレーションから日本は外れるだろうなあという点。これは以前僕自身の論稿のなかでも論じたことがあるのだけれども、国際的な芸術祭とその序列化は、ほぼ国際的(≒アメリカ、ヨーロッパ中心的な)な美術を評価する言説群の序列化と連動していて、アジアの芸術祭は第2グループと第3グループのハブをどの都市が担うかの競争にあるという印象がある。国際的に活躍するキュレーターはそれこそ弾丸ツアーで世界各地の芸術祭を回っているわけで、コンパクトかつ批評性があり、個人的にはある種贅沢な芸術祭を志向する都市がないと、シンガポールはおろか、隣の光州、上海、台北あたりからの差も拡がる一方だろう。僕は別にそれでも一向に構わないのだけれども、やはり日本の芸術祭(もしくはマーケットでも可)から、国際的に競争力をもつアーティストを輩出するためには(僕が大事だと考えているのは日本という国の制度や言説を通して評価されるアーティストが生まれる可能性であって、そこで活躍するアーティストの国籍は全く問わない)、空港からのアクセスも良い横浜、あいちあたりは、過剰に地域への拡がりを志向せず、ハイブロウな方向性でも良いのかなという気はする。街なかへの拡がりは、地域おこし的な面(ひいては地価の上昇からくる税収増なども考えているのだと思うけど)を重視しているのだとすれば、一方で国際的なサーキュレーションに残る芸術祭を維持することで生じるアートツーリズムによって起きる消費、特に海外からアジアの芸術祭をハシゴするツーリストは消費額も大きいので、そのあたりのバランスをどう考えていくかかなとも。

てな感じかなあ。まあ、ざっと考えた感想なので何ともだけど。ただ、今回は旅行で訪問したので、美味しいものもいっぱい食べたし、札幌は市内でも温泉に入れるので、あいちなんかよりはトータルでは楽しめる芸術祭体験だったのかなと。これ改稿して所収して下さる美術批評雑誌、ウェブサイトの方お待ちしています(嘘)。

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