2018.02.12

軽やかな写真、軽い日常

久しぶりに、ただ心に浮かんだことを書いてみたいと思った。この数年、自分でも訳の分からないほど色々なことがあって、それは新しい環境で、新しい人と出会って、仕事も充実していたけれども、ひどく忙しくって。一方で、僕は強くないから、どこかでバッファを必要としていて、それがなぜか僕はソーシャル・ゲームで。始めてみたらハマり、むしろそれ自体も濃密なコミュニケーションが続く日常になってしまって。

久しぶりに一人でただ好きな本を読んだ、近くのスーパーで買った初めてのブルガリア産ワインを飲みながら。今まで彼女の本、全てが好きなわけではないのだけれども、『わたしがいなかった街で』は僕の大好きな小説の一つだ。そして、今読んでいる、しかもあと50頁も読めば読み終わる『寝ても覚めても』を机に置いて、ふと書きたくなった。

その理由は、ふと記憶も、写真も軽くなったと感じたから。僕より少し年上の朝子は、とにかく写真を撮り続けている。1990年代も、2000年代も。そして、僕自身フィルムからデジタルに変わっていくなかで、同時代に写真を撮り続ける若者だった。このなかで、朝子が、

「デジカメって、次撮れるまでが遅いよな。手巻きがいちばん速いのかも」

と言ったとき、何かがフラッシュバックしたような気がした。僕はフィルム現像は苦手で、現像はヨドバシに出して焼き付けを自分でするのが好きだったんだけど、カメラのなかにフィルムを装填して、自分で巻いて、出して、それを繰り返すことが、写真を撮ることだった。僕にとって、あの頃撮影した写真を見返すことは、この手順だったり、そもそもシャッターを切るたびに感じていたカメラ自体の重みと地続きの体験だったのだなと。

でも、デジカメどころか、カメラをカメラたらしめる光の屈折機構がアナログには捨象された、ただのレンズ付きの板で撮る今の写真は、軽い。連射も簡単だし、そもそもシャッターを切るという行為自体が、今を切り取るのではなく、今を加工することが前提になされている。

ヒロミックスのように、今から思えばとても「コンパクト」とは呼べないコンパクトカメラで日常を切り取ることを覚えた僕の世代にとって、いやむしろ当時の写真の性質を考えれば「私」にとって、重みのあるカメラで、構図を考え、焼き付けレベルでしかコントロールできないことを前提に、シャッターを切り、それが自分にとって撮りたかったカットなのかを反芻する、今から思えば無駄とも思える時間の経過にこそ、自分がカメラを通して自分を見つめる時間があったのだと分かった。

別に僕が感じているのは、Instagramのような視覚型SNSを前提とした軽い写真に対する憎悪ではなく、僕らが持っているほとんどの携帯型情報端末で撮影することができるということ自体が、僕の日常を軽くしたという実感である。これは写真だけに限ったことではなくて、僕らを取り巻くメディアの発達は、基本的には僕らの生活の利便性を高め、時間的効率性を上昇させる。一方でそれは同時に、不便だったからこそ発生しえた、自分が発声すること、書くこと、そして撮ることへの自省の時間を無意識のうちに消失させていく。そのことに気づくとき、えらく自分の生活が軽くなったように思う。恐らく、知識も、分別も10年前の僕よりは重みをましているはずなのにである。

久しぶりに、日常を写真に収めたいと思った。できれば、レンズ交換も、構えてファインダーをのぞくことも必要な、いささか不便で重いカメラで。多分、僕には携帯型の板で撮影する写真も、それを共有するネットワークも必要だ。でも同時に、その記憶の軽さをつなぎとめるための、質量のある写真も必要なのだろう。オリンパスペンでも十分。カメラをぶら下げて歩く日常が愛おしい。

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