2019.10.01

あいちトリエンナーレ2019訪問記

表現の不自由展を閉鎖する壁

今回は、すでに展示以外のトピックが同展の話題になってしまっているけれども、そういったきな臭い話についてはより上手く扱える方もいるので棲み分けすることにして、実際トリエンナーレを訪れて僕が感じたことを。

非芸術化する芸術祭

これまでの国際芸術祭訪問の経験、そして今回のあいちを歩いてみて、日本の国際芸術祭って、アートと関係なく人々の生活に根付き始めたんだなあという印象は強く持った。

その理由は二つあって、一つは、日本の地域型の芸術祭はかなりスタンプラリー化が進んだなという実感に由来するもの。全体の80%ぐらいは特定の美術館で見られる(例えば、ドクメンタのフリドリヒチアヌムのような)というよりは、かなり散っていて、とにかく歩き回り、全部見ること自体に満足感や達成感感じるような設えになり始めている(私も含め)。とにかく豊田も名古屋の四間堂の周辺も、カップルで、または友人たちと歩き回り、スポットスポットでの会話を楽しんでいるように見える人々が多かった。でもってこれは、アートだから出来る側面がある(美的な性質とは別の水準で)。食なんかでも、こういったスタンプラリー型の地域おこしイベントはありうるかなとまわりながら思っていたのだが、それだと小さな会場は滞留してしまうんだよね。

元々、一作品を見る時間をさほどかける必要が無く、映像作品ですら見る時間を切り上げることができ−つまりかなり個人に時間のコントロールが委ねられるという鑑賞上の特徴を持つ−、常にオーディエンスが対流するアートだから、こういったスタンプラリー化がしやすいというコンテンツ上の特性はあるよなあと。

もう一点は、ボランティアの方と話していて気づかされた点。名古屋でも豊田でもでそれぞれ15分ぐらい話し込んだボランティアの方がいたのだが、豊田の方は、大阪から来てらっしゃっており、この週末(9月27日、28日)で7回目とのこと。色々と話をしていたら、「アート」そのものには関心がなく、「ボランティア」に関わり始めてはまり、今回は芸術祭のボランティアに参加したとのこと。この手の動機で参加する方は今回結構多いですよともおっしゃっていた。それこそ、僕はあいちは初回から皆勤賞なのだが、年々ボランティアの年齢の多様性が広がっていると同時に、ボランティアから入ってくる、つまりアートに元々は関心がない方の比率が上がっているんだろうなと(ちなみにこのあたりは、実行委員会で検証の資料として毎回データとり始めると良いかな)。

その意味では、その観衆、支え手ともに、アートに従来から関心を持っていた特定の層による社会的なイベントではもはやなく(多分現代美術のイベントではないのよ)、きわめて日常の余暇活動のイベントとして定着したのだなと。これが良いのか悪いのかは分からんし、それは論じ手の立場によって変わるだろう。ただ、僕はどちらかというと現状をポジティブに見ている。過去に論文として、国際展のジオポリティクスみたいな話をしたことがあるけれども、徹底的にそこから外れてしまうというローカライズのされ方はあるんだろう。

永田康祐さんの展示室。映像作品は出色の出来。

スタンプラリー化の弊害

一方で今回、スタンプラリー化したことで生じた課題−そしてこの傾向は、僕が足を伸ばすものでは、昔の混浴温泉世界もそうだったし、札幌もそう、そしてしばらく続く傾向になるだろうが−としてはっきりしてきたこともある。それは、元々アートを見せることを想定されていなかった場所をどれだけスタンプラリーに組み込むか、またそのオペーレションのためにどれだけボランティア全体の質(つまり事前トレーニングのようなこと)を上げる覚悟を持つのかということである。

まあ、はっきり言うと、豊田の喜楽亭とか四間堂の伊藤家住宅などは、もう鑑賞する場所としては結構不愉快な部分もあった。というのは、元々展示施設ではない場所をコンバートし、人を回遊させる動線が整備されていないので、単純に待たされたり、一度中に入ると映像が終わるまで途中で出たくても出られない的なことがある(特に喜楽亭の一列映像視聴は僕はありえないと思った)。

最初のトピックのところでも書いたけれども、アートというのは基本的には回遊しながら見ることが想定されているはず。実際現在の美術館もそうだし、歴史的経緯からみても、美術(館)の展示は、万国博覧会、遊園地、パノラマ等の親戚ではあるので、「歩きながら見る」という身体的運動に依存した視覚遊具なのはまあ間違いない。

ところが、街中に作品を数多く配置し、まちを体験することとないまぜになっていったがために、ところどころ滞留が生じる箇所が出てきてしまう。特に、この手の展示は、特定の関心を持ったアートが好きな層にはフラストレーションになりうるし、そこでの来場者対応がボランティアに委ねられている(しかも上述の通りアートに関心が元々なかったボランティアが増加したことで、そこでなぜ鑑賞者がそういった行動や発言をするのかに対する想像力が乏しくなっているという印象は受けた)ことで、ここでの鑑賞者対応をきちっとトレーニングとして施しておかないと、クレームが増加したり、来場者の満足度を低下させることになる。

ところが一般的には見た目とは裏腹に、芸術祭の準備は、最後の2ヶ月は恐らくカオスだと思われるので、そのなかで展示物が開始日までに揃い、普通に動いていることが優先され、その作品を前にしてボランティアトレーニングができる時間は僅かになることも多く(インストールがぎりぎりだと多分開場してから対応なんてことも普通にあるだろう)、今後このスタンプラリー化する芸術祭の傾向が続くとすれば、リスク管理の大きな部分を占めることになるのかもしれないなという実感がある。

ということもあって、今回感じたのは、芸術祭、とりわけ地域ベースの芸術祭って、美術の批評言説だったり、アートの国際的序列化のような芸術社会学的な言説よりは、かなり余暇研究、生涯学習の研究に寄ってきているのかなあということ。ゆえに、この側面はきちっと(僕も含め)誰かが書いていくべきだし、国際展をリアルタイムで論じるような言説(特にジャーナリズム)においても並行して取り上げられるべき話題だろうとは思う。

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