2023.04.07

On a ChatGPT Hype

久しぶりの更新。タイトルとしてはこれで適切だと思うけれども、ChatGPTに触れるわけではない。この春休みは、コロナ禍以降ようやくモチベーションとしても能力としてもほぼフルで「読む」力が戻ったという実感のある2ヵ月だった。そろそろ学期が始まる今週、春休み最後に読んでいたのが、瀬名秀明の『ポロック生命体』。年が明けてから、私の職場なども含めてChatGPTはずっと話題になっているのは見ていたから、ひょんな時期にAIをテーマにした本を読んでいるなあなどとは感じていたのだった。ちなみに、僕のメディア研究者的な知的関心を最初に刺激してくれたの本の一冊もまた、瀬名秀明の『デカルトの密室』だったと思う。これが最初の僕のチューリングテストとの出会いだったわけで。

で、なんで更新をしようと思い立ったのかと言えば、瀬名さんの本はやっぱり僕には面白くて、その過程でしみじみ僕は技術そのものに関心があるのではなくて、技術を取り巻く想像力に関心がある人(研究者?)なのではと感じたからだ。この数年、OculusもClubhouseもそれなりにリアルタイムで導入したものの、積極的にいじったかと言えばそうでもないし、今回のChatGPTもいじるはいじれるのだけれども、むしろ積極的にいじっている同僚を観察しているという姿勢の方が正確だと思う。そこには、これまでの教育のなかで、どこかで「今目の前で起きていることは、時間なり空間なりの一定の距離感がないと理解できない」という変な諦念みたいなものもあるのだろうし、歴史学などでたまに聞く(真実なのかは知らない)「歴史化されていない事件は論じられない」みたいな話と重なる部分もあるのかもしれないとは思っている。

そのうえで、まわりで最先端の技術をいじっている人がいないと、それこそただ時代から取り残されていくだけな気もするが、僕の場合はメディアというか情報技術の研究者が集う職場にいることもあり、同僚が積極的に扱っている姿を横目で見られるという幸運に本当に恵まれている。それは、実際に何ができるとか、プログラムかませることでどう便利になるかという事実以上に、彼らと日常的に会話(それこそチャットの場合もある)することで、リアルタイムでこの類の技術に長じた人々が何が出来そうだと思いながらその技術をいじっているのかという想像力を肌で感じることができる点にある。これまで大半の技術がそうであった通り、技術は社会に生まれ落ちると、後世からは想定もできないような活用法が検討される一方で、一定の期間のなかで、そして多くの場合産業化とともに一定の枠のなかへ収斂する、もしくは陳腐化する。そして、その技術がさらなる深化(多分進化ではない)を遂げる過程で、当時の「想定もできない」活用法が、実は最先端の可能性として発見されたりすることを繰り返している。この時間的、感情的なダイナミズムの総体が技術であり、この総体をとらえてみたいという欲があるから、僕はメディアの研究に魅かれるのだと思う。

このあたりのことを『ポロック生命体』を電車で読みながらボーっと考えていたのだけれども、その先に感じていたのは、それがメディア研究やSTSが本来議論すべきことなのだと思うし、この領域に関連する大学の学部、大学院が担うべき教育なのだということ。ChatGPTのhypeはいずれ消えていくと思うけど(ChatGPTの出現のせいでメタバースへの注目が薄まっているように)、いずれ周回遅れで、(これまでの政策に加えて)政治家や官僚がAI開発する理系の研究者を倍増させようと言い出すに違いないとも思うから。

技術を扱える人々の絶対数と、彼/女らが最低限の開発、運用能力を備えていることは確かに大切だ。加えて、僕のような技術を取り巻く想像力に関心を持つ人々(必ずしも研究者である必要はないし、むしろアカデミアの外の方がずっとそういった人材が必要だ)も、技術を扱えたり、内実を知る必要は同様に絶対にある。なぜなら、その仕組みを知っていることや、そのプログラムやAIが動く手触りを感じていること自体が、技術への想像力の基盤に他ならないからだ。ただし、同様に想像力なき技術者だけを育てることもまた、ある意味では人力の(さして処理能力の高くない)AIを育てているような側面はあると思う。この点は、恐らくデータサイエンス教育にも当てはまる。データを処理する基礎的な能力は生きてくことをかなり楽にしてくれるが、そもそも何のためのそのデータを収集し分析しているのか、さらにはこのデータを分析しているということが社会的に、リスクも含めていかなる意味を持ちうるのかが分からない、もしくはそれを考える気がないデータサイエンティストが増えてしまうと、社会はおそらく変わらないし、こちらも同様にそれこそ基礎的なデータ処理はAIに任せた方がはるかに早く正確になるはずだ。

なので、最終的に何が言いたいのかというと、僕と一緒に勉強してくれる人いませんかということ。僕でも良いし、僕の所属している学部でも良い。僕は学部生でも院生でも、こういった問題関心を共有できる方と勉強を続けることでもっとより深く自分が生きている世界を理解したいし、社会科学の論文だけではなく、文学や映画等の表現のなかに無意識に埋め込まれた想像力も含めて技術と向き合いたい。最後に、海外のSFを挙げだすときりがないけれども、日本だと冒頭で触れた瀬名英明さんや、長谷敏司さん(プロトコル・オブ・ヒューマニティの文庫化待ち、先は長い)、早瀬耕さんは、技術とヒトの関係性をそれぞれ透徹した視点から描いていると思う。瀬名さんは知的に、長谷さんはときに残酷に、そして早瀬さんはどこまでも美しく。

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