昨日は地元で父の誕生日を祝った。田園都市線上にある小さな町のイタリアンでランチ。このお店は比較的リーズナブルでおいしい。3回目か4回目だったと思う。僕の今回の仕事の就職祝いなど、結構節目節目によくいくお店。その後、少し酔いを醒ましてから髪を切りに美容院へ。まあ、休日らしい休日だった。
つい先ほど、『ポストモダンの共産主義』を読み終える。まあ、僕は政治思想、社会思想はからっきしだめなので、批評する立場にはないんだけれども。最近の民主党の代表選なんかも見ていて感じるのは、「成長」や「繁栄」で国や世界を語るのが胡散臭すぎるということ。僕らの世代もそうだが、僕らの子供の世代は今以上にひどい世界が待っているんではないかと時々思う。
個人的な印象でしかないんだけれども、なぜ人は「死ぬ」ことを話すことから逃げようとするのだろうか。もちろん、僕も個人単位で「死」を宣告されれば、受け入れながらも「死ぬ」ことを話そうとは思わないだろうけど。これは、ミュージアムでも同様で、なぜミュージアムは「モノ」を生きながらえされることだけを考え、死を宣告することを躊躇うのだろう。僕らが死ぬ以上、文化も文化的価値を規定する枠組みも、生まれまた死んでいくはずだと思うのだが。死の宣告を恐れて、無駄にコレクションを増加させていくだけなのだとすれば、そんなミュージアムは必要ないという気もする。
ニュース何かを見ていて感じるのは、話を限定するけれども、日本が今後shrinkするのは誰もがほとんど分かっているんじゃないだろうかと。どうみたって、経済右下がりだし、そもそもアジアの偏狭の島国で人口も少なく資源もない国が、これからも1980年代のような景気を享受するとは思えない。僕が求めるのは、いかにこの国が「良く死ねる」かを朴訥に語ってくれるような政治家なんだが。まあ、それでは一般的には当選しないんだろうな。もちろん、この「死ぬ」というのは幻想としての「日本」の死であって、日本国民の死では全くないのはご承知おきください。
因みに読み終わったジジェク本を本棚に並べると、その前に最後に読んだちくま新書は森先生の『変貌する民主主義』だった(苦笑)。