という言い回しは、日本語としては変なのだろうか?昨日は職場で文化政策というよりは、文化的な公的組織に属する個人がいかに文化に働きかけられるかというレクチャー。
まあ、お決まりの「文化」とは何だったのだろうか?「市民」とは何だったのだろうか?とかいう概念の画一性をあげつらうのはとりあえず止めにしておいて、僕がいつも文化振興関係の議論を聞きながら感じていることについて少し。
「文化」によって都市が活性化することはとりあえず良いと認めるにしても、「文化」が活性化し過ぎたことを未来においていかに判定することができるのかという点である。例えば、市民の誰もがアートと触れ合う町づくりと言われるとき、アートに色々触れた上で、それでもアートがない都市でもいいと感じる人。さらに、そのような住民が、アートにひかれて新たに都市へと参入した住民よりも何世代もその土地を生きてきた住民で、他の都市へ転居するという選択肢がない場合。彼/彼女はどう生きていけばいいのか?そしてそのような住民に対して、文化政策はオルタナティブを提供できるのかという点だ。
ブログなので長い文章を書く気はないが、僕は比較的現状が現状であることを前向きに評価するタイプである。それはこの件に関しては、文化政策が進まない日本の都市の現状に対して、敢えて否定的な立脚点から始めるのではなく、なぜ現状が現状なのかをむしろ積極的かつ冷徹に分析する態度のことを意味している。文化政策の議論を聞いていて僕が思うのは、まず現状が非常に悲惨である(30%ぐらいは正しいとは感じる)。なので、文化を発展させようという流れ。これが一番危険なのはギアがトップに入った時、誰がいつブレーキが引いてくれるのかということ。創造的都市論の悪い二番煎じだと、文化が雇用を生み税収も増えるのだ万歳的な部分があるんだけれども、一方で都市で一次産業というのは無理だとしても、都市の産業構造を大きく変化させることになる。さらに、周辺の郊外都市から文化都市に人口が流出することで、その地域一帯の一次産業、二次産業の空洞化が引き返せないところまで進んだ時、それは幸せかということだ。
もちろん、そんな状況はとりあえず想定できる状況ではなく、まず文化が大事だというのも納得できるんだけれども。でも文化の健全な発達は、むしろ一定の抑圧や制限があるからこそあるのではないかと思うことがある。それは思想的な抑圧でも、法制度的な制限でもある。その文化の発展と抑圧の間のせめぎ合いそのものを受入れ、もう少し肯定的かつ冷静に分析をしていきたいというのが僕の立場であり、それは「批判的日和見主義」とでも言えるのではないかと。まあ、けれど「主義」ほど一貫してもいなければ精緻でもないので、だから「批判的日和見」なのである。