という、あまり得意ではない話題について考えてみる。
本日は職場で、「所有論」などで知られる立岩慎也さんの話をうかがうことができた。僕も広い意味で社会学の中にいながらも、中々きちっと手を出せる領域の研究者ではなかったので楽しみにしていた。どちらかというと美術領域で生活する受講者にも非常に分かりやすい富の再分配論だったし、なぜ学問や芸術の領域に対する公的助成の正当化が困難なのかも、コンパクトにまとまっていたと思う。議論の切り分け方が非常に上手い講演だったし、うん、社会学の人の考え方だなあとニヤニヤしながら拝聴していた。
今日の講演のなかで、意図的に触れていなかったテーマとして世代間の富の再分配の問題があったと思う。もちろん、福祉国家論のような議論であったり、平等が自由かみたいな政府の形論には僕は全くの素人なんだけれども。ただ、富の再分配に加えて、政府が公共財を設定して公的な資金を芸術文化に投入する際の、一つのハードルが世代間格差なのではないかなと感じながら聞いていた。
これは芸術文化全般ではなくて、文化財保護、つまりミュージアムにおけるコレクションと屋外にある文化遺産に話を絞っていることを前提にして欲しい。基本的に、現在の文化財保護の流れは貴重な歴史的・文化的を未来に向けて保護していきましょうという考えに基づいている。ここで問題なのは、この未来が恐らく「未来永劫」もしくは、「100年単位の未来」を想定している点だ。まあ、文化財が公共財であることはとりあえずよしとしよう。但し、文化財が歴史に基づいて保護され、なおかつ100年単位での保護を想定している以上、時の経過とともに保護の対象は増加していく。それはすなわち、現在の保護によって未来におけるコストを増加させていくということになる。そして、その維持費は当然僕らの後世の世代の税金によって賄われることになる。このようなコストの増加だけが目に見えているものに、社会の総意として公費の投入を行うことは、やはり困難なのではないか?
文化財の保護がいらないとは全然思わないけれども、少なくとも一度選別が行われた文化財を常にその対象に留めるか外すかどうかを決める仕組みは必要だと僕個人は思っている。もし、一度価値があると認められた文化財が常に保護されているのであれば、それはモノの人口延命措置であって、モノに対する尊厳のある死とは言えない。人間と同様に、文化も、そして文化的背景を持って生まれたモノも、生きており、そしていずれ死ぬものなのではないか?このダイナミズムが働かない文化など、健全とは言えないのだろうと思う。アドルノは美術館は美術品の墓場だと言ったけれども、僕らが今住んでいる社会は、自分たちがまさに生きる世界そのものを、ミュージアムや世界遺産といった制度で墓場にしている側面があると思う。そして、これは福祉社会的な意味でも、世代間の格差を生みうるのかもしれないなどと、立岩さんの話を聞きながら感じたのであった。