2010.12.24

「アート」と「社会」をつなぐ必要はあるか?

一応22日にて仕事納め。週明けに一度大学には出勤しようと思っているが、昨日今日ぐらいはゆっくりしようかと思っている。別に今年一年を真面目に振り返るというわけではないけれども、こないだたまたまメールボックスを開けた時にMLで拝読した告知について少し思うことを。

それは若手のアーティストの展覧会の告知だったんだけれども、そこに提起されていたのは「アートと社会をつなぐ」というテーマだった。今年も、この手の発言やメールを良く見ていて、何で未だにこの標語が機能するのか僕にはイマイチピンとこない部分がある。僕の個人的な感覚では、この標語は1990年代の後半には既に一定の影響力があって、この流れで当時幾つか企業メセナ協議会周辺で出版がなされていたのではないだろうか。

僕がこの標語に違和感を感じるのは、「アート」それ自体も一定の自律性を持った社会であり、「(一般の)社会」の中にも「アート」的な要素は存在しているからだ。特に、「アートと社会をつなぐ」という標語を用いるときには、その背景には一般の社会ではあまり馴染みのないアートを生活の隅々まで届けたいという意図があるんだと思うのだが、「一般の社会」からは隔絶した社会領域としての「アート」それ自体が、近代から現在にかけて歴史社会的に与えられた役割でもある。

つまり、彼らの考える「社会」と「アート」の繋がり方を考えるとき、恐らく一つの道筋となるのは、いかに「アート」という社会圏域が所謂「一般の社会」から隔絶した領域として「つなげられて」いったかを問い直すことだと思う。この自省的な検討無しに、街中にアートが入りましたという事実以上のことが起きうるのかが僕には良くわからない。「と」という助詞はその前後の名詞が個々に独立していることを暗黙に了解しているが、多分僕らが問うべきは「アート」という普通に社会の一部として歴史的に存在してきた圏域の社会的役割を読み変えたり、組み替えたりすることだろう。「アート」と「経済社会」をつなぐとか、「アート」と「法社会」をつなぐと言って頂いた方が、まだ僕には納得がいく。この標語もそれなりに危ない表現なのは間違いないんだけれども。

ただ、一方でこのような物言いは研究者からの衒学的な言葉に過ぎないというのは容易に想定できる。だとすれば、僕はもう一つ現場の人と考えてみたいことがある。それは、先述のように1990年代の後半には「アートと社会をつなぐ」と言う標語のもとに幾つかのプロジェクトが進められ現在を迎えている。つまり、既にこの15年を通して続けられてきた努力にも拘わらず、依然として「アートと社会をつなぐ」必要性が存在しているのは何故なんだろうか?実践の現場に身を置くものとして、今までの「アートと社会をつなぐ」取組みの事業評価をきちっと行ったうえで、実践が蓄積されてきているだろうか?もしも、このような事業評価の蓄積と横のネットワーク無しに、単発で「アートと社会をつなぐ」のだとすれば、それは恐らく「アートと社会をつなぐ」というセクトの乱立に過ぎず、結局自身が変化を望んでいた一般社会から隔絶された「アート」という圏域のなかの、些細な活動として理解/誤解されてしまうのではないだろうか?

このような運動に参加する方の違和感や意図には基本的に好意的なんだけれども、だからこそ標語とか運動の水準ではあまり、「アート」と「社会」という怪しい言葉には頼らず、事後に起きた変化を総括するような報告書やシンポジウムにおいて「このような変化こそが、私たちが考えてきた『アート』と『社会』の関係性なんです」と自信を持って主張できるほうが、僕個人としては健全な気がしている。このような文脈で、また短い原稿を寄稿しようかと思っている。

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