2011.04.17

花見と五反田と六角堂

今週はとりあえず、特に何もなく平和に過ぎていったみたいだ。少し気になっているのは、震災関連のイベントが急速に増加していることぐらいかな?

先週末は、地元でちょっとしたお花見を楽しんだ。その後一週間は何気なく過ごしていたような気がする。金曜日には、お世話になっている情報学環の水越先生の今年度初会の授業に参加し、仲間と一緒に話したり、お酒を飲んだりして楽しんだ。僕は学籍上は学環の人間ではないんだが、もう水越先生周りの方々とご一緒するときは僕にとってはある種の故郷みたいなもので、すごくリラックスできる。水越先生にも、水越先生を通じて知り合った皆さんにも改めて感謝。今後ともよろしくです。

その後土曜日に五反田のDNPのミュージアムラボへ。知り合いの編集者が仕事で向かうのに声をかけてもらって一緒に参加。どちらかというとDNPの小さなミュージアムという先入観が強かったのだが、担当者の方とも少し話してみて、むしろルーブルの日本の実験ラボの色彩が強いことに納得。技術そのものは素晴らしいなと思ったのだが、決定的なジレンマは、あそこで利用されていた技術の多くは、それが優れたものであればあるほど来館者の滞留時間を長くしてしまうので、とりわけルーブルのようなメガミュージアムでは、来館者の動線に影響を与えてしまうということ。また、企業の事業としてシステムをパッケージングするとしても、数売らないとコストが落ちないのでなかなか難しいんだろうなとは感じたわけです。

後もう一つ気になっていけなかったのはMCDNの震災関係のイベント。これは誤解を招くので、書くときには相当文脈の説明が必要になるので迂闊に書けないんだけれども、六角堂が流されたことは事実として流されたことと、その象徴的な意味を異なる文脈で考えるべきだと思う。それは福島第一原発が放射能を拡散させていて封じ込めが緊急の課題であるという事実と、日本のエネルギー政策の在り方、引いては私たちのライフスタイルの再考のきっかけとなる象徴だったことという区分に近い。つまり、私たちは今までのように、高コストでそもそも限界を抱えている「文化財」の保存を今までのシステムで運用していいのかという問題だ。

僕は何度かブログでも書いている通り、未来永劫保存すべき文化財の存在を原則として認めていない。逆に言えば、結果としてその時点その時点で収蔵されてから残り続ける文化財は存在するだろうが、現時点で持っているものを全て後世に伝えるべきだとは思っていない。六角堂は不必要だとは僕は全く思っていないが、流され流出したという事実はそれ以上でもそれ以下でもないと思っている。文化財を「文化」の一部だと認めるのであれば、「文化」は生まれるものでもあり、「文化」は失われるものでもある。この新陳代謝をモニタリングするのが文化的アーカイブの第一義の機能であり、何を収蔵し何をリリースするかという終わることのない議論は、この枠組みのなかでこそ十分な効力を発揮する。とりあえず価値がありそうな文化財を少なくとも100年以上のスパンでとにかく保存することは、一面では社会的病理であって、ミュージアムや文化遺産の研究者こそ「文化」を失うことの創造的な意味と向かい合うべきだという気がしている。特に、物質文化論の流行以降の文化人類学にはすでに、この点に関する優れた感性が育っていると思う。

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