ということで、台風一過の23,34日と神戸で開催されていたCultural Typhoon 2011に足を運んだ。元々は、うちの職場で開催したイベントとの関連があったりしたので行ってきたのだけれども。初日はカラッとした晴間が広がり、ちょっとした旅情気分も満喫。
まあ仕事は仕事として、このイベントに来るようになったのは、そこでしかお目にかかれない人がいるからで、特に僕にとっては同世代の海外でPh.Dを終えた、もしくは終えようとしている仲間とワイワイやる貴重な場になっている。特に、この数年だとオーストラリアで研究している友人達と顔を会わせるのが楽しみ。片方は日本の近代以降の思想、もう一方は移民研究を御専門とされているので、さほどdetailの話が弾むわけではないのだが、ちょっとした会話をしていても刺激があって、僕も頑張らなきゃなとか、博論「退治」しなきゃなという気分にさせてくれる。そこでも話していたのだが、今回は例年に比べると海外からの参加者が少なかった印象があって、その点は残念。
一方でちょっとしたサプライズもあって、今回の出張でもし時間的に可能なら京都にあるSocial Kitchenを再訪したいと考えていた。一見、ただのオーガニックなお洒落カフェであり、よくよく見るとちょっとした社会運動のスペースだったりもする場所。来週僕が引き受けている鼎談の関係もあって訪問したかったのだが、ちょっと無理だなあと思っていたら、まさかのカルタイ会場で須川さんにお目にかかれるなんて。いや、特にあちらが先に気付いてくれたのがとても嬉しかった。過去に一回、1時間程度お話しできただけだったのに。結果的に、彼女が予定していた韓国のアートよりのコミュニティスペースの運営者の方との打合せに同席する幸甚。彼らのパネルを前日に拝聴していたこともあって、結果的には参与観察者として臨席。
僕は現在進行形中の運動としては、美術館も、美術館と消極的対概念化した国際展にもあまり興味はないので(一人の美術愛好家としてはいつも楽しませて頂いていますが)、せいぜい大きさは家ぐらいで、たまにアートもやってますというスペースの方に関心を持っている。そんな場所の一つであるSocial Kitchenが韓国で紹介されているという話は、ちょっとした驚きで、彼らのプロジェクトが繋がっていく様子は横でsomething important is gemergingであることに加担しているような気分だった。もちろん、彼らはどこかで今の社会の在り方に違和感があって(特に須川さんの使った字面の英語は比較的僕には刺激が強かった。日本語であればまた違う言葉を選択していたと思うけれども)彼らなりの実践にこだわっているわけだけれども、それよりも大切なのはそれが、彼らにとって楽しいからだということが伝わってくること。
ただ「楽しい」とか言うと、僕らもそれなりにいい歳なので怒られたりするんだけれども、例えば僕が研究と誠実に向き合えるのは、それが自分にとって何より楽しいことだから。もしも、自分の研究がミュージアムの今後の改善のために役立つことが目的になってしまったら、アウトプットの評価はどうあれ、少なくとも僕にとってはあまり誠実な研究にならないだろう。例えば、美術館の学芸員の方は立場上、地域社会にとってのアートの意味だとか、そのための方策を近年語らざるを得ない傾向があるんだけれども、それがその人にとって楽しいこととして語っているか伝わるかどうかが、僕個人が一緒に議論したり、仕事をする上での信頼感を醸成してくれる。というのも、大抵の人が、何か楽しいことに向きあっている時に、一番ひた向きになれているし、困難とも付き合っていける気がするから。とある夏の午後、神戸の小さなカフェに集った彼らの実践は、計量的な評価としては大したものにはならないのだろうが、僕個人としては応援したいなと。但し、それがアートの内側に閉じこもっていかない限りという留保はつくものの。
最後に反省。普段お世話になっている先生方とほとんど話せなかった。どうも昔から同世代、下の世代とは良く話しをするんだけれども、目上の方を後回しにしてしまう。次回お会いしたさいに、日頃の感謝も含めまた話をさせて下さい、該当の先生方。