2011.08.27

ミュージアムと指標

二年目に入って最初のポスト。最近、twitter上でたまたま何人か学芸員の方が、ミュージアムを指標で測定することに対する違和感をコメントしていらしたので、それについて僕が感じていることをボソボソと。

この件で一番代表的に取り上げられるのが「美術館を来館者数で評価すること」への違和感であろうと、この10年ぐらい見ていて思う。ここでまず必要なのは、「ミュージアムを来館者数で評価することへの違和」と「ミュージアムを定量的に評価することへの違和」がベッタリ張り付いていることが多いことに自覚的になることだと思う。否定的な方も、多くの方が来館者数「だけ」による評価はおかしいという限定をつけているので、来館者数も評価の指標の一つとして認めているのだとは思うが、僕個人は「来館者数」は評価指標として重要だと考えている。美術や科学に関心を持ってくれる方の確率がゼロではない限り、論理的には母集団を拡げた方が今後このような領域に進む方が増えるわけで、この点では少ないより多い方が基本的には望ましいと思う。

引き続き「定量調査に基づく評価への違和感」に関してだけれども、これは定量評価の目的によって異なる態度をとることになるのではないかなと思っている。ということで、行政による公的な文化施設の評価として定量調査の評価は妥当かという文脈に関しては、もし美術館なり博物館が「ミュージアムには定量調査はそぐわない」と考えて違和感を感じているのであれば、これは僕はまずいと思っている。というのも、行政側はミュージアムに対して、行政の領域において意味を持つ指標をミュージアムに提示して欲しいといっているわけで、もともと来館者数や収支だけを求めていたわけではないと思うのだ。どちらかというと、定量的な指標がそぐわないというよりは、今まで来館者数や収支といった指標が主流になってしまったというこれまでの経緯において、評価する行政側、評価されるミュージアム側両者の想像力の欠如が問題だったのだと思う。

もちろん、特に地方公共団体レベルで文教行政のスペシャリストが一定のスパンでミュージアムを担当できれば行政にもその責任を負担して頂きたいものだが、現状行政における人事システムを鑑みると、ある美術館や博物館のもつ全体的な可能性なり役割を理解できる行政官は非常に少ないだろう。だとすると、ミュージアムの全体像を熟知したミュージアムサイドから、ミュージアムを評価するのであればこのような項目で指標化するのであれば不公平感を覚えずにすみますので、一緒にミュージアムを評価する指標を作成しませんかという提案が必要なのではないかなと感じている。例えば、来館者数などもそうである。来館者数の問題は、人数そのものが絶対値だと考えられている点に一番の問題がある、来館者数は展覧会の想定人数に対してどの程度入ったかという充足率でも実は測定可能なわけで、だとすれば県立美術館単位でも、それなりに東博と勝負することが可能になる。さらに言えば、この充足率すら必ずしもミュージアム全体という形をとる必要はなく、ミュージアムにおける機能、例えば展示、教育普及を別のカテゴリーに設定した上で、館のミッションが後者に重点を置いているのであれば、教育普及部門の充足率を設定して、これは他館の充足率に比較してかなり高いことを示せれば、それは行政を説得する有効な指標になりうる。だから、僕は別に毎年ART newsの統計を見て東博の企画展の動員力に気圧されたりはしないけれども、金沢21世紀美術館が市内の小学生全員が一度来館しているというデータには、こりゃすげえと素直に思った。というのは、当該公共団体の児童が全員訪れているという事実は、東博で言えば日本中の小学生が一度来ているという指標に類似しているわけで、これがいかにすごい来館者数かというのはもっと評価されていい。

まあ、この手の話は正解がなくて、というのは大きな方針が示せたとしても、結局各館固有の事情が云々で、個別論に議論の戦場が移行してしまうからで、それにいちいち対応するのは、行政評価に関してはアマチュアの僕には荷が重い。ただ、一点いつも感じるのは、ミュージアムの定量的評価の限界の議論は、基本的には「定量的指標」そのものの限界というよりは、まずは「定量的指標に対する想像力の欠如」の限界ではないかと思う。僕自身は、「定量/定性」という枠組みそれ自体不毛であるという立場だけれども、少なくとも「日本における」ミュージアムの評価、来館者調査に関しては、まだまだ「定量調査」によって明らかになることは多いんではないかなと感じている。妙に長文になってしまった…。

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