先週の木曜、金曜日と名古屋周辺の美術館の調査出張に行く機会があった。木曜日は、愛知県立美術館を訪問のほか、学芸員の方とも話をする機会を持った。翌日は豊田市美術館、名古屋科学博物館と訪問。中京地域は完全な地方でもなく、いつも通過しているだけの地域だったのでいい機会になった。
木曜日は、気が付けばそれぞれ10年ぐらいの付き合いにはなる名古屋の美術館学芸員と図書館の司書の友人と食事をしていたのだが、図らずも近接異業種交流会のような趣に。そこでの話と、翌日訪れた豊田市美術館のことを考えていて改めて美術館に投資する理由について漠然と物思いに耽っていた。
まず第一に食事をしているときに感じたのは、日本の場合は運営母体が「公/私」であることと、ある制度の社会的役割が「公/私」であることの意味があまりに貼り付きすぎているんだなあということの再認識。例えば10万人の市民の税金を投入している公立美術館と、10万人の社員と株主を抱えた私立美術館との間に、運営母体の違いを越えてどこまで本質的な差異を認める必要があるのか。もしも、後者が設置されている地方公共団体においてより貢献度が高いのであれば、当該地域の公立美術館の補助金を打ち切り、後者に振り分けたとしても一訪問者としては何ら困らない。指定管理者制度の主旨は、「民間から効率的な運営を学ぼう!」ということだと思うのだが、実は運営団体を維持したまま効率的になろうという努力をこれまでどれほど行ってきたのか。例えば、直轄運営のまま管理部門に民間から人を招いた場合と、民間に委託した場合の有意な比較がなされたことはあるのだろうかということ。
引き続き、豊田市で感じたのは訪問者の側面から考えたとき、やはり美術館は娯楽産業のオプションの一部でしかないということ。大半の人にとって、友人、恋人、家族と訪れるのが美術館なのであり、そうであればより美しい建築物の方がいいし、食事もおいしいに越したことはない。実際、「公営」の美術館にもかかわらず、豊田市美術館の場合はブランディングが上手いなという印象。カフェで食事をしていた時に支配人の方と話をしていたのだが、美術館側(つまり市側)が場所代、光熱費等、飲食店経営における固定費にかなりの優遇をすることで、名古屋市内であれば2,000円ぐらいはとってもいいフレンチのランチが950円で提供できるとのこと。だから、平日の昼間などはレストラン自体に地元の方がリピートしており、その流れで美術館に訪問がありうると。僕は、どこの公立美術館もこうすればいいとも、こうできるとも思わないけれども、少なくともここでのランチを楽しみに今後名古屋には出張しようとは思わされた。その意味では、徹底的に余暇の選択肢としての魅力は必要なんだろうと。
ただ、このような書き方をすると、ブランディングをしたところで美術館は、入場料収入と物販等で財源の3割を超えるのは不可能なのだから市場には馴染まないと批判されるのだと思う。その批判は基本的に正しい。だから、少なくとも日本の現状の制度であれば公的な助成が必要なのだと思うのだけれども、きっとそれは教育施設だからではなくて、市民や県民の福利厚生の一環だからなのではないか?つまり、学校や図書館との関係性よりは、むしろスポーツセンターや公的温泉施設といったようなものとして整備する必要があるからこそ、資金の投入が必要なのではないかと。その意味では、例えば野球場や美術館がそれぞれ各県にできてしまったのがおかしいのであって、県の福利政策の優先度においてこちらは野球場とサッカー場は創るから美術館はごめんなさいだとか、その逆という形になるのが自然だったのではないか。こうなれば、選挙の争点として文化も対象化されやすくなったはずである。美術館・博物館それ自体の存廃は関心を正直持ちにくいと思う。そして、だからこそ「最低限の文化的生活」が、法的根拠として利用できるのではないか。
法学の素人であり、大分誤解があるだろうことは承知で書いてしまうけれども、戦後の憲法制定の環境からすれば、「文化的な生活」とは帝国主義国家から、より福祉国家的な色彩を帯びた民主制度におけるスタンダードオブリビングとしての「文化的生活」だったわけで、それは統制下の「非文化的生活」の対概念だったのではないかなという感覚がある。つまり言いたいのは、国民の誰もが美術館やオペラを享受する権利として「最低限の文化的生活」を理解し公的資金を投入することには僕は違和感はあるけれども、国家の福祉政策における国民の選択肢の多様性を維持するために美術館や公共劇場を一定程度整備しておく必要があるという論理であれば前者よりは納得できてしまうのである。
従って、多分制度の存廃みたいな論点に絞るのであれば、これ美術関係者がしなくてもいい議論ではないかなあと。法学や社会学はあまり美術のこと専門にしますなんて人聞かないけれど、これやっぱり福祉行政だとか福祉国家論の専門家によって議論された方が、僕はしっくりくるんだなという結論。まあ、こんなことを出張の帰りしなにビールを飲みながら考えたのであった。