「思ふ」シリーズ二回目。まあ、担当している学芸員の方が何度か仕事したことがある方だったせいもあって、何となくウォッチしてきたわけだけれども、結局美術館としては前橋の件は流れたみたい。ようやく週末になって時間がとれたので、幾つかの新聞サイトやtogetterなどをチラホラと見ていた感想など。
まず良かったこととしては、結果はどうあれ市長選挙の争点になったこと。もちろん「ハコモノがいるか/いないか」という論点の素朴さは別として、YCAMや横須賀など、ミュージアムの存廃自体が選挙の争点になる土壌ができつつあることは良いことだと思う。togetterのなかで重鎮ギャラリストの三潴さんが「文化政策によってコロコロ変わる物であってはならない」的なニュアンスのことを指摘されていたが、それもむしろこれから市民の中に育っていく感性なのではと思う。まずは、教育や福祉と同様に文化の問題がきちっと毎回の選挙の争点になっていくことが大切なのではないかなあと。そのような選挙が積み重なっていくことで、初めてそのときの論点が適切なものであったかを検証することができるはず。これから20年ぐらいのスパンで考えないと。それは、各地で雨後の筍のように増えたアートプロジェクトに対しても言えることだけれどもね。
一方で、二点ほど気になっていたことがあって、一つは三潴さんのコメントで、これは一定の市民層(今回であれば前橋市民)の感覚を代弁しているからだと思ったからだけれども、基本的に文化政策はコロコロ変わるものだと思うんだよね。フランスのようにある種の国是として文化の尊重を実施している国は別として、日本にかかわらず多くの国で文化政策とはそれなりに頻繁に転換するものだと思う。むしろ、僕は文化(特に今回で言えばアート)は基本的には私人のある種の執念による保護の方が安定した運営ができるのではと考えている。もちろん、そのようなパトロネージの機能が近代以降の社会においては、公的な機関に移行したのだから時代錯誤だという批判はあるんだろうけれども、恐らく仮に時価で100万円以上の美術品をリスト化することができたら、依然として個人、個人財団の所有している文化財の方が、美術館の収蔵品よりも多いのではないだろうか?ここで数的な形に還元する必要はないけれども、美術品の収蔵や展示の制度としては、美術館は極めて特殊な制度であることはもう少し理解されてもいいのではと思う。ここでは、僕は名主の倉的なものも想定しているんだけれども、有名なところで言えばバーンズ財団なんかはその代表だろうと思う。グッゲンハイムもね。
もう一点は、「美術館からアートセンターへ」という言い回しなんだけれども、「美術館/ハコモノ/近代」、「アートセンター/イベント/現代」的なイメージのべったり貼り付いている感じが大いに気持ち悪い。僕も地方自治体の見栄としての美術館に関してはとっくに関心は失っているのだけれども、名辞と機能の話が未分化のまま議論が推移しているのかもしれないなとは感じた。スタンスはかなり違うし、ひょっとしたら前市長は自身のモニュメント的に美術館を残したいと思っていたのかもしれないが、アートを媒介に都市の再開発(経済的な意味だけではなく)を行い、地域のコミュニティ機能を取り戻すという考えが共有されていたのだとすれば、それがそもそも美術館であろうとアートセンターであろうとどちらでも良かったはず。問題なのは、機能とその制度設計なわけで、最終的に与えられる名辞は公民館でもいいのではないだろうか。これはもう一度文化政策の話に戻るのかもしれないが、そこで問題になるのは名辞ではないんだろうなと。美術館だとかアートセンターという言葉に振り回されると、問題の本質を市民も行政も見失ってしまうのかもしれない。その意味でも、もうしばらくウォッチを続けたいしSさんにもしたたかに頑張って頂きたいなと(これは完全なエールです)。
最後に一言思うのは、新しい首長が自治体を立て直すために、全ての領域を見直すのは当然だし、そのなかでミュージアムを始めとする文化行政への予算をカットするのも、自身が参加した選挙で選ればれた首長の方針である以上僕は仕方ないと思っているのだが、どこかの市長さんが仰るように「効率性」だけを考えるのであれば、元々大した予算のついてない日本の地方自治体で文化予算をカットするのってどれほど効率的なのかとは思う。むしろ、市町村レベルでの首長の裁量がインフレしているような印象が最近あるので(松坂の市長さんなんかも剛毅な方ですよね)、むしろ強力な文化固執都市ができる可能性もあると思うんだけれどもね。知らん間に長文になってしまった・・・。