2012.09.25

ファッション談義

これは完全に思いついて書いていることなんだけれども、2000年代後半になって漸く散発的ではなく、同時多発的に「ファッション」について話す場所が増えてきたなあという実感があって。それについてボソボソと思っていたこと。

この数年、人間関係レベルでは動いているのを何となく知っていたファッション関係の雑誌だったり、研究会だったりがある程度の頻度で公開されているのを横目で見ながら、僕がファッションで卒論を書こうと思っていた2000年代初頭とは大分潮目が変わってきたなあと。僕の学部三年生の頃の研究テーマは、なぜ「ファッション誌は、ファッションだけではなくライフスタイル全般を規定する媒体足りうるのか?」といったような、今考えると当時自分が思っていたよりは社会学っぽい内容だったと思う。最初に発表したのは吉野耕作さんのゼミで、その場で『ディスタンクシオン』を紹介されこれがブルデューとの出会いとなったわけです(今でも正確に読めているかは疑問だが、当時は今から見ても相当読めてない)。当時日本語で読めた文献としては新装版の前のフィンケルシュタインとか、当然ウェブレンとかだったはずで、成実先生も当時は前者の訳者としてしか存じ上げていなかった。

まあ大分環境は変わったもので、最近は「デザイン」そのものの大衆化とも関係して「ファッション」に関する言葉とか記述の束は随分増えてきたんだなあと思う。ただ一方で、相変わらず「感性の高い人」による閉じたサークルが増えただけなのかなあとも感じることがある。昔は純粋に「ファッション」関係者による語りだったものが、「FabLab」だったり「CC」のような広い意味での「デザイン」関係者のなかでの語りへと緩やかに繋がっている感じ。これは1990年代末から『ハイファッション』だったり『AXIS』だったりを購読してきたような方からすれば(僕なんかも学部生の頃はそうだったわけですが)、ある種のデザインの民主化-つまりみんなが作る必要はないにしても、関心を持つことでデザインへの関与が可能になる場の増加-として肯定的に受け容れられたりするのかなあと思う一方で、やっぱり「ダサい人」によるファッションを語る場にはなかなか意識しないと巡り会えないだろうなあと(研究としては既にありそう)。

基本的に上記のような人の集まりでは無い場所で最も目につくのは、「ダサい人の改造計画」的なテレビ番組なわけですが、恐らく視聴者の大半もどちらかというとあの中で矯正されるべきファッションセンスであるにもかかわらず、勝手にダサい人を見下ろすポジションに自身を位置づけ、徹底的にお洒落な人の視線から「ダサさ」を区別するわけです。つまり「ダサい人」による語りの場ではなく、「ダサい人」について感度が高い(と思い込んでいる)人が語っている場なんだよね。その意味では、「ダサい人」による「ダサい人」のための語りってやっぱりあまりないなあと。さらに言えば、「感度が高い人/ダサい人」文法が既にこの両者を前提とし、その区別を強化しているだろうと批判され得るわけです。

別にこれグダグダな呟きなのでまとめるつもりも特にないんですけれども、もっとなぜその服装がその服装であるのかとか、なんでこういう風に着ていることが普通に見えるのかとか、普段意識していなことをもっと語って欲しいなとか一読者としての僕は思うわけです。圧倒的な人にとって「服を着る」というのは必ずしも意識的に行っている行為では無いはずで、その部分をもっと知ることができたら楽しいのになあと。ファッションのデザインとしての新しさについての語りはどこかで飽きるんですよね。これは僕が美術史や美術批評あきらめたのと同じ原理だと思うのだけれども、シャネルに比較すると今のデザイナーって新しさの出し方が微細にならざるを得ないわけで、差異の微分競争やっているように見えてくるし、その競争も「ファッションデザイン上のズレ」という同じ構造の上でやっているように見えだすと、構造はいつも同じように見えてしまったりするわけです。なんかこれ以上書くと、長いだけでさらに拡散する一方なのでそろそろ終えようと思います。

最後に、「ダサい人改造計画」は英語圏では「makeover TV」と呼ばれたりすることが多いと思いますが、ジェンダー系、ポピュラーカルチャー系の研究者は結構好んで1990年代から2000年代を通じて取り上げたテーマなので、ご関心がある方は是非探して見て下さい。

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