いや、他にも発信すべきことっていっぱいあるんじゃないかとは思うのだけれども、少し時間ができたので昨日考えたアニメとファッションについてのあれこれ。
昨日はこの2,3年の生き甲斐の一つにもなりつつある「Gundam UC ep.6」を新宿で鑑賞。今回も一カ所頬を涙が伝うという・・・。ep.4なんかは泣き所満載なんですが、今回はジンネマンの「許す」が。ガンオタ的には、UCシリーズは脇役中年が素敵過ぎることであるとか、08小隊以来のロミオ&ジュリエットものであるとか、宇宙世紀の歴史をここまで上手く踏まえられるのかとかという内容的な話題があると思うのだけれども、UCに関してはっきりと思うのは、「社会が良くなることへの希望」が描かれているゆえのカタルシスがあるというのが大きい。
僕は丁度就職活動していた時期が「失われた10年」の第一就職氷河期の世代で、それなりに選挙権も必ず行使し、人並み以上には新聞やニュースを見ながら生活してきて、正直今の世界で起きている軍事的衝突や政治的対立が、社会を良くするための善意に基づいていると感じられないことが一番グッとフラストレーションを感じる点なんですよね。例えば、技術(それが科学的なものであれ、社会的なものであれ)の革新は、より早く離れた家族に会いたいがために車が、より多くの人が容易にエネルギーが行き渡らせたいからこそ原子力が生まれたと思えるから、悲惨な兵器に技術転用されたり、原発事故が起こっても、それでも前向きに議論と衝突と交渉を続け、なんとか目の前の問題を克服するためのコストを払えると思うというか。そもそも原子力に関して言えば、それが最初から悪意に基づいて人を殺すために開発され、それをそのプロジェクトに関わる人々が全て共有していたのだとすれば、それはある意味では生きる甲斐のない世界なのではないかと思ってしまう。今回のバナージなんかはひしひしこういうジレンマを感じるんだけれども、それでも世界は良くなると、それが個々の意志の集合で変わっていくと信じていられるところにフィクションであるからこそのカタルシスが感じられるのではと。一方で、宇宙世紀のガンダムシリーズに共通しているのは、非常にはっきりとした個人の善意の集合で社会が良くなることへの信頼が示唆されていることで、かなりテクノクラートによる寡頭制、さらには全体主義への親和性が高いという危うさも体現しているのだけれども。
その後、友人の展開しているブランドである「RIVORA」を訪れる。友人と話をしながら感じたのは、ファッションについて語る言葉って、現代美術に近いなあと。僕はどちらかというと、ファッションを語る言葉の拡がり方(もしくは文脈の拡がり方)って、「現代美術」よりは「建築」に近いと思っている。前者のイメージというのは、一つは作家の歴史、もしくはスタイルの歴史として衣服を語ってしまうこと。そして、authorshipに強く依拠する語り口。
一方で後者は、意匠と構造の歴史として語ること。つまり、デザインとパターンの問題、そして特にパターンやテクスタイルを可能にする技術を重視した歴史の書き方かなと思っている。具体的に言えば、ファッションの文脈で建築における構造家のOve Arup的なスター化の方向性ってありうるのかと。すごく古い例で申し訳ないが、例えば耀司でパターンやってたはずの若林ケイジさんなんかもやっぱりデザイナーになってしまうんですよね。ものすごく技術に理解のあるパターンナーが、川久保からも、マルジェラからも発注がくるようなスターパターンナー化しうるのかと(ひょっとしたらいるのかも知れんけど)。もう一つは、デザイナーが語らなくてはいけないのは、アーティストのように作品の差異化を「目的」するからではなく、むしろ否応なくライフスタイルや都市の景観に影響を与えざるを得ない建築家と同じように、ライフスタイルやジェンダー観、日常的な身体規範に影響を与えざるを得ないというデザイナーが、社会的説明責任という「義務」においてこそ語らなくてはならないのではと。これも同じデザイナーで申し訳ないのだが、シャネルの語りが歴史資料として評価されうるのは、デザイン史における意義ではなく、むしろシャネル・スーツが機能性という名のもとに女性のセクシュアリティの概念を改変し、女性の生活スタイルを変えたからではないかと。行き過ぎの見方をすれば、作家としよりも社会工学のプランナーであるという点において「話さなくては」ならないように思うことがある。でもやっぱり、特に若いデザイナーもアーティストになりたいし、若い研究者も美術批評家になりたいのかなって、茶飲み話をしながら感じたのである。別にRIVORA自体がそういうブランドだという話ではなくて、そこで色々と昨今のファッション業界の方の話を伺っていて、改めてそう思わされたという。