今朝、毎日新聞を読んでいたら地域版の紙面としては異例のサイズで横須賀美術館の運営に関する記事「盛況だった横須賀美術館のロックバンド展」(2013年8月3日毎日新聞朝刊神奈川版)が掲載されていた。仕事柄、本格的な議論は論文、学会等での発表がいいのだろうと思ったのだが、紙面の指摘単位で幾つか思いついたことを指摘しておいてもいいと思う。
「年間来場者数は、オープン当初に見込まれた10万人前後で推移してきた。」(同記事)
これ相当立派だと思うんですよ。当初の見込み通りに集客が出来ているのって。横須賀美術館て基本的にはアクセス悪く、コレクションもそう大きなものではないだろうと思うので、10万人前後で推移しているのは評価すべきだろうと。直観的には「美術館」に限定したのは厳しかったかなとは思うけれども。例えば美術展示もできる科学博物館とかだったら、もう少し地元の方もいらしたのかもしれない。
「〔ラルク展と同時期に開催された=引用者〕国吉康雄の回顧展は1ヶ月間の来場者数約6000人弱。」(同記事)
「約6000人弱」というのが若干日本語として気になりますが、ラルク展の4分の1の集客数で人が入らないことを指摘しているのだと思うのだが、ラルク展に来た人でかつ国吉展に入った方のカウントはしているのだろうか?恐らく、さほどラルクファンで国吉ファンというのは現状なかなか日本にはいらっしゃらないので、例えばラルク展の10%が、この展覧会で初めて横須賀にいらしてついでに国吉も見たとすれば、それはそれで意味があるのではないか?そのさらに1%が国吉ファンになったとすれば、20名程度新たな美術ファンを獲得したことになる。これも過小評価すべきではないだろう。
「〔横須賀=引用者〕市が毎年3年以上の運営費を投入していることに対し、市議会では『赤字経営体質』として運営のあり方が問題視され続けてきた。」(同記事)
だったら建設の許可出さなければ良かったんじゃないのと。何度も書いているけど経営的な側面から見ればミュージアムは赤字しか出しません。そもそも建設当時の行政や市議会でストップかければ良かっただけでしょうと。これは重要なことなので書いておきますけれども、美術館の政治争点化は必ず「建設前」にすべきです。建設後にしても遅いです。つまり、採算面では黒字は出ないので、それを根拠に建設中止の是非を判断するか、それを覚悟で最低でも10年間は地方公共団体の財団か民間の指定管理者に一括で運営を任せるぐらいの覚悟ではないと美術館は育ちません。その意味では、少なくとも日本の「公立美術館」は数が多すぎる印象があります。
その後鎌近の水沢さんなどのインタビューが掲載され、記者の方の提言があるのですが、強く感じるのはミュージアムの社会的意義を語る語彙の貧しさです。これは記者の方を批判する意図は毛頭なく、行政、美術館関係者、メディア、研究者ともに、結局「娯楽施設/社会教育施設」の二分法でしか語れてこないことへ苛立ちと言えばいいのでしょうか。他の二分法を使えば「効率性/公共性」だったり、「経済的価値/文化的価値」だったりと言葉の変奏はできるのだけれども、これ絶対かみ合わないだろうと。経済的価値を問題にする人は収支の改善を迫っているのであって、そこに経済的指標に還元できない美術作品のオーラとか持ち出されても困りますし、文化的価値を議論する人はコレクションの公共性や心の豊かさを支持しているので、そこに収支の問題とか言われても知るかという話なわけです(そもそも「儲かる/儲からない」と「美しい/美しくない」は異なるシステムのコード/規範であり、議論の基盤を共有していない。)。僕の博論のなかでも、この両極間の揺れがミュージアムにおける「コミュニケーション」概念に影響を与えてきているわけですが、恐らくミュージアムについて「語る」ことを生業の一部にしている人間が探すべきなのは、この不毛な二分法の隘路を行く語り口なのだろうと。最近デトロイトのDIAのコレクションの散逸の問題がでたときに、岩淵潤子さんが「おしなべて美術館は私立であるべき」と仰っていて基本同意なのだけれども、これだけ公立の美術館がある日本の現況を考えると、一つのキーワードは「社会福祉政策」の一貫として美術館をどう考えていくかではないかなあとこの2,3年考えている。恐らく現状の自治体行政のなかで「効率性/公共性」の折衝が最も広く行われていて、かつ文化領域の価値を相対的に認識できるフィールドとしては、福祉の場が相応しいのではと思う。他にも感じたことはあるのだが、既に長文なのでここらへんでお暇願いたい。今日は、夏休みで家族連れでごった返すドラえもんミュージアムを初訪問の予定である。