札幌国際芸術祭を9月の前半に訪問した。ずっと訪問記を書こうと思っていたのだけれども、9月は猛烈に忙しく気がつけばもう一月経ってしまった。で、漸く文章を書く時間ができたのだが、もう朝日新聞等で「識者」の展評も出はらっているので、トリエンナーレも含めこの数日頭をよぎっていたことをと思う。
今回個人的に感じたのは、札幌国際芸術祭は「都市型のトリエンナーレ」だったのか「地域型のトリエンナーレ」だったのかという点だ。簡単な統計を見ると、現在札幌市の人口は190万人程度であり、今年の横浜トリエンナーレの横浜とは比較にならないにしても、昨年のあいちトリエンナーレの開催地名古屋が220万人ぐらいであることを考えると、人口規模からすれば都市型のトリエンナーレとして認識すべきなのかとまずは思う。
ところが、今回15年振りに札幌を訪問して感じたのは、都市空間がモザイク化していて、ある区画、ある区画では規模に相応しい再開発が進む一方で、そのすぐ隣の区画ではそれがたとえ中心街区であってもそこはかとない廃墟感を覚えた点だ。僕は、日本の大都市で開催されるトリエンナーレと地域で開催されるトリエンナーレ(大規模なものでは越後妻有から比較的小規模のものでは別府まで)では、その目的は異なるという漠然とした印象を持っている。分かりやすいのは横浜の事例で、横浜は現在人口が300万人を軽く越えており、横浜が(行政は渋々という感じがあるのではとそこはかとなく感じていますが)トリエンナーレを継続するのは、恐らく大都市間での差異化の競争のためであり、極端な言い方をすれば、国内都市間というよりはアジアにおける国際都市のブランド戦略の側面が強いように思う。
けれども、別府や道後などのケースはその予算規模から考えても、都市型のトリエンナーレとはきわめて異なる色彩を持つプロジェクトであり、芸術祭自体の企画者や参加アーティストは別として、地元の人々(商工会を中心とした人々のイメージ)や自治体にとっては、観光客の誘致と副次的な経済効果、そしてその先に自治体の過疎化に対しての方策という側面があるのだろうと思う。だとすると、札幌のケースはどちらに当たるのだろうか?滞在中、現地の大学に勤めている友人たちと比較的ゆっくり時間をとって話ができたのだけれども、そこからも感じたのは北海道全体としては人口減が間違いないなかで、人口が札幌に集中しているという、ある意味では地方での典型的な人口移動の状況だ。外部から見ているので、全く間違っているのかもしれないが、でも「札幌に行きたい」のではなく「東京に出たいのだけれども、経済的にもそこまでは難しいので道内の札幌に出たい」という消極的な理由から札幌での人口増加が進んでいるのだろう。
その意味では、国際展としては、札幌国際芸術祭はあいちや横浜と同じ文脈で議論するような国際展ではなく、別府や道後と文脈を共有するなかで限界まで拡げた国際展という印象を僕は持った。それは、展覧会の構成からすれば、都市型のトリエンナーレに対する圧倒的な作品点数の不足(これは展示できるスペースの限界という側面もある)と同時に、地域型(もしくは地方型)に多いアクセスの不自由さ(これはアドバンテージでもあるのだが)にも現れていると思う。だとすれば、この国際芸術祭は何のために開催され、継続されていくのだろうか。むろん、その思惑は、行政、地元の商工会、いわゆるクリエイティブ産業従事者、住民それぞれにとってきわめて異なったものになるのだろう。
とはいえ、この点に関しては、札幌の件以外にも、東北地方を中心に、こぞって芸術祭、現代的な美術館の開館が進む現状まで含めて、もう少し先まで議論しなければと思っている。その先には、少なくとも日本にとって、また日本の東京、大阪以外の土地にとってコンテンポラリー・アート(及びその集合的な興行)が何を意味しているのかという問題につながっていくだろうから。ここまで書いておきながら無責任だが、当座僕が答えられるようなことは何もない。ただ、一言言えるとすれば、2010年前後からこのテーマについては、地域社会学や環境社会学のなかで蓄積が進んでいるし、その成果は社会学者や地域研究の研究者だけではなく、広く地域ベースのアートプロジェクトの関係者のなかで共有されていけば良いと思う。ということで気が向いてなおかつ時間があれば、個別の展示についても書くかも。展示自体は、僕個人は楽しめたので。