2015年明けて最初のポスト。改めまして本年もよろしくお願いします。仕事始めから早々、仕事の関係もあって美術館を訪れたり、美術館関係の映画を見たりしている。「早く見なくては!」と思っていたのだが、年が明けて漸く『みんなのアムステルダム国立美術館へ』を見ることができた。
この映画は、僕は『ようこそアムステルダム国立美術館へ』の完全な続編かと思って期待していったのだけれども、前半は『ようこそ』の縮刷版で、後半の1時間がその後の話を綴った内容。従って、前作もご覧になっている方にはコストパフォーマンスは低い。前回もクセが強いなあと思ったのだが、新館長のヴィム・パイベスはさらにあくが強い。第一印象は、世界的な美術館館長ともなると、強引なリーダーシップを取れるある種人格破綻者ではないと務まらないということだろうか。前館長のロナルド・デ・レーウは、そこそこ人間的な哀愁も漂っていたのだがヴィムと言ったら・・・。この映画公開されて大丈夫だろうかという壊れっぷりである。研究者もそこそこあくが強い方はいらっしゃるし、まあ僕も決して気質の仕事しているわけではないので、クセはあるのだけれども、まあアート業界をサバイヴするのは無理だろうと再確認。
一方で、この映画の主題の一つは、なぜ国立美術館が世界的な美術館としてのプレゼンスを保つべきなのかというモチベーションが、アートワールドの内部と外部でずれていることが延々と描かれていることなんだろうなと。美術館のスタッフと行政は、同じ目的を共有してはいるのだが、その力点が異なる。行政にとっては、即物的にはアムステルダムという都市の活力を与える要因の一つとして国立美術館が存在しているがゆえにリニューアルが必要なのであって、建築や展示デザインの細部にまで神が宿っているのかどうかという点については、さほど関心はない。あくまで、美術館は「手段」である。ところが、館のスタッフ-とりわけ館長-にとっては、細部に至るまでに美的に構築された新国立美術館であるからこそ、アムステルダムは国際的な都市として認知されうるのであり、アムステルダム市の発展は、その「結果」である。このズレは最後まで解消できなかったし、この二者で言えば地域住民は行政側に近いわけだけれども、極論すれば、旧館と新館の差異などはあまり気になっていなくて、自分たちの日常生活が快適であれば良いので、美的に建築が優れているよりは、交通至便の方が良いというスタンスも変わらない。一応開館の際には、皆歓喜に包まれていたように見えるが、あまり救いのない映画だったとは思う。
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一方でその翌日、アーツ前橋を訪れた。会期切れ間近の「服の記憶-私の服は誰のもの?」を見てまわったのだが、僕は服を対象とした(ファッションを対象としたとは言えないかも)展覧会としては、「身体の夢」展以来の満足度だった(特に身体の夢以降、KCIの展示はあまり好みではなかったので)。まあ、個々の作品を論ずるのは、蘆田さんに任せれば良いと思うのだけれども、それでもNIGOさんのセクションには好印象を持った。APEは僕は一度も買ったことがないけれども、学生の時期1990年代末の東京のファッションを牽引していたブランドの一つとしては同時代感がバリバリあるのだけれども、彼が無類のビンテージジーンズ好きだというのは知らなかったし、一般のファッションマニア(ジーニストとでも言うのだろうか)ではなく、販促のグッズ、会社の社史を象徴するような物的資源をコツコツとコレクションしてきたことに感銘を受けた。どちらかというと、ファッションにおいて評価されてきた人物の(に由来する)展示物が、結果的には社会史や文化人類学的に興味深い展示だったのが良かった。きわめてミュージアム的だと思う。
一方で、これがなぜこの施設が高崎ではなく前橋なのかという点には依然としてモヤモヤした感覚が残っている。アメリカでも、行政府であるワシントンにミュージアムは密集しているだろうという話はあるにしても、ニューヨークにあれだけミュージアム群もあるわけで。僕はどんなに頑張っても群馬県の内側から覗くことはできないし、北関東に関心のない生活をしてきたことを否定できないわけで(理解する気がないと宣言したいわけではない)、そういった外部の人間からすれば、前橋で地域に根ざしたかたちで美術館を運営することで何が起きるのかがイマイチ想像できない。これは、前橋を名指しで批判しようという意味ではなくて、地域の振興にアートが役立つといったお題目で開館したり、開催されるアート・プロジェクトに対して僕が持っている不信感でもある。
依然として、そのイベントなり館なりが立ち上がったことで生じる変化を把握する言葉も方法も足りていないと思う。こういうことを書くと、芸術文化は経済効果や来場者数には還元できないという批判を受けがちだけれども、そういうことを言いたいのではなくて、以前から何度か繰り返しているように、経済効果や来場者数のような指標ではかれないものはいらないという主張をする人々と議論を続けるためのプラットフォームとしての評価の枠組みは必要なはずだから。現在の政治的風土を見ても分かるように、民主主義は数の政治だという雰囲気は強く、だとすれば歴史的にも芸術文化を支える人々が多数派になることは少ない。だからこそ、そういった少数の意見を守るためにも、大多数の人々の土俵で相撲をとるための武器を僕らは一つずつ手に入れていくべきだと思う。
なんてことを、芸術におけるグローバルなネットワークのハブの一つであるアムステルダム国立美術館と、グローバルな館長がローカルとの接点で可能性を模索するアーツ前橋をボンヤリと思い浮かべながら考えていた。