本当に久しぶりにブログを更新している気がする。今年は本当に春以降忙しくて、全く自分のウェブサイトをマネージメントしようという意欲が湧かなかった。とはいえ、大体何かがマイナスになるときには、一方でなにかがプラスになっているはずで、自分でも意識していないところでなにかを得ているのだと思う。
昨日はこれまた本当に久しぶりに一人でオフの一日をとって好きなことだけを続けた。昼からは、上智大学で開催されていた「Sunflowers and Umbrellas: The Rise of Youth Activism in Taiwan and Hong Kong」に参加した。社会学的な視点からの研究という意味では、今回のゲストスピーカーは明らかにどちらの運動にとってもキーとなる研究者/実践者だったと思うので、彼/彼女らを日本に招いてカジュアルな雰囲気で議論ができる場が維持されていることは救いだなあと感じた。アカデミックな意味での東アジアにおける日本の存在感とかは正直どうでもいいのだけれども、僕がIACSなどに出張っていく際に受ける充実感や知的刺激が、何らかのかたちで身近にあって欲しいし、そのためであれば多少骨折ってもいいと思っているので。というか僕らの世代が受けた恩恵ぐらいは、自分よりも下の世代にもパスしたいと思っている。
内容的には東アジアだけの問題ではないのだけれども、ある種の先進国病的な共通性が「ひまわり」にも「雨傘」にも影響しているし、これは社会運動化するかは別としてより韓国の方が切実な問題ではないかと思う(日本も言うまでもない)。つまり、経済発展の過程で劇的に若年層の高学歴化が進む一方で、ジョブマーケットは縮小傾向にある。そのうえで現状の変更を求めても、数の上では中高年層の方が多いと同時に、時系列的に彼/彼女らが先行しているため既得権もその層に偏重している。結果として、ただ従順に投票行動に訴えるだけでは現状の改善が難しいという点だ。これは、どこかの記事で読んだけれどもシリアを中心とした中東でも起きている問題だし、スペインを中心としたヨーロッパでも事情はそう変わらないだろう。宗教的な問題は確かに存在する。けれども、テロにも青年層の社会運動にも影響を与えているのは、明らかに戦後に作られた近代国家の枠組み内での成功へのパスが崩れているにもかかわらず、(世代的にも)既得権を持つ政治、行政、経済界がその崩壊を認識していないという認識論的なズレがあるのだろう。
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その後東近美に向かおうと思ったのだけれども、四谷で16時を回っていたため断念。銀座に向かい映画を見る。この数年、台湾を中心とした中国系の映画と美術館周りの映画しか見る暇はなかったのだが、たまたま朝ストレッチをしているときにつけていた「王様のブランチ」で紹介されていたヒュー・グラントの地味な映画を見る。洋物映画はマイケル・ウインターボトムが封切りされる際ぐらいしか見ていなかったので新鮮。どうしてもヒュー・グラントはノッティングヒルの二枚目にはなりきれないイギリスの俳優的なイメージが抜けないのだけれども、そのままいい意味で年をとった感じだった。いわゆる現場から引き抜かれる大学教員の話なので、ハリウッド崩れのヒュー・グラントが、ジェイン・オースティンの専門家であるいかにもアカデミア育ち知的エリートの大学教授を批判しているシーンとかは、職業柄スカッとした(笑)。映画だから許されるやりとりだし、自分の職場にそうしたい上司がいるという意味では全くございません。
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映画が日比谷シャンテだったので、映画の余韻を楽しみたくて銀座のSONYビルに入っているパブでキルケニーをパイントだけ飲んで帰ったのだが、そこで1時間ぐらい一人で考え事をしていて、やっぱり自分が20歳のときにした決断は間違ってないんだなと思った。恐らく高校から大学にかけて、人並み以上に美術も映画も好きだったと思うけれども、僕は美術史家にも映像研究者にもなれないんだと思う。いや、諦念とかネガティブな意味ではなくて、やはり根源的には僕が自分がこの世界に生まれた意味を知りたいし、僕の周りの人々が今この世界にともに存在していることを知りたい。だから、ブリューゲルの絵画に当時の人々の心性を感じてワクワクしたのだし、より人々が生きていること自体を描くのがうまいウインターボトムや、ケン・ローチが好きなのだろう。だからこそ、社会学的なものの考え方を背景に、両者と付き合えている今の環境が適しているのだと思う。と同時に、自分の師は心から敬愛すべき社会学者なのだと。こればっかりは、時間の経過とともにしか分からないことである。ということで、もう一回ぐらい年末のご挨拶がかければいいのだが。