2016.05.28

On Carol Duncan’s Lectures in Tokyo

とタイトルは英語で書いてみたものの、結局英語のチェックを始める気がしてきたので、日本語で書くことにしようと。恐らくアメリカのMuseum Studies業界ではすでに古典となりつつあるCivilizing Ritualsの著者であるCarol Duncanが来日しており、彼女の2回のレクチャーに参加しながら感じたこと。

5月21日(土) 「美術館、あるいは儀礼と権力の空間」

こちらは基本的には、先ほどのCivilizing Ritualsでの議論が背景になったレクチャー。この書籍の良さは、美術史的な側面から近代の象徴としての美術館を議論するだけではなく、その空間に与えられた機能として「儀礼」を抽出し、そこにむしろ文化人類学の鍵概念である「liminality」を接続することで議論の地平を広げることにあったと僕は考えている。というのも、この書籍が出た時期というのは、ちょうどIvan Karpらスミソニアン周辺の文化人類学者によるミュージアム論の出版と時期を同じくしていたからで、どちらかというと教育学一辺倒だったアメリカのMuseum Studies業界(この業界はどうしても、Octoberのような美術理論には接近しないので)に強いアクセントが生まれるだろうなあという期待を抱かせたからである。

ところが(と言うべきなのかは分からないが)、当日のレクチャーはむしろオーソドックスな美術史ベースの議論という印象を受けた。実際には、当然「liminality」の話にも移っていったので、美術史の研究者や学生がきけば枠組みの広がりを感じられたのかもしれないが、僕のような背景を持っていると「おー、そこまで展示空間を緻密に分析するの?」という絵画が展示される空間の分析が長く、そこから導かれる啓蒙施設としての美術館という、学術分野を問わず了解がとれるミュージアムの位置づけの議論がかなり時間配分としては長かったので、上述のような印象を受けたのだと思う。というか、基本的にはCarol Duncanはart hisotrianなんだなというのが良く分かったこと自体が僕にとっては収穫だったのかもしれない。

5月26日 「一世紀前の「新しい美術館」と「新しい図書館」:ジョン・コットン・デイナ、根源的民主主義者の仕事」

二日目は、図書館から美術館へという話の流れ。僕も博論を書いているとき、歴史のスタートをどこからとるかということは考えていて、その際に何度も今回の主人公であるJohn Cotton Danaについては関心を持っていた。ただし、指導教員にもよく言われるのだが、歴史を明らかにするために歴史を書くことには関心がない研究者なので(ここでうまく説明するのは難しい)、とりあえずはあまり調べないでいたという経緯がある。もう、これは前者とは違い、完全に知識自体を得たいと思って参加したという感じ。

恐らくアメリカ史の研究者にとっては、恐らくJohn Cotton Danaはある種のsocial reformerといしては、相当有名な人なんだなということがはっきりと理解できた(不勉強な私…)。僕はミュージアムサイドからしか、ディナの仕事を見てこなかったので、どこかでミュージアム研究ローカルのDuancan F. Cameronなんかと同じカテゴリーとして見ていたのだが、平塚らいてふぐらい有名な方なんだろう(笑)。彼の根源的な欲求というのは、知識や知識を得ることの快の大衆化なんだと思うけれども、二点面白いなと。

一点目は、恐らく彼が活躍した時代は、MoMAではAlfred Barr Jr.が活躍していた時期とそう違わないので、両者は既存のヨーロッパの知識人階級の持つ「美」の規範に批判的な姿勢を共有しながらも、一方ではきわめてsecularizedされた方向でミュージアムを成功させ、他方ではアメリカ的階級的美の規範に依拠したミュージアムを成功させたという点だと思う。Alfred Barrについては、どちらかというと美術史的な文脈で評価されてきたんだと思うけれども、ミュージアム論のなかでのBarrの位置づけというのはまだ議論の余地が残されているんだろうなと思う。特に、日本においては英語圏のmuseum directorに依拠した歴史というのはほとんど紹介されていないので、特に今院生などであれば、十分に取り組める良いテーマだと勝手に思っている。

もう一点面白かったのは、時代的にも地理的にもほとんど直接の関連性を見る必要はないのだけれども、1960年代の北米のミュージアム界を代表するDuncan Cameronが提供し、未だに引用されることのある「museum as forum」という概念に、Danaのミュージアム観が非常に近いという点。彼は、「museum as temple / museum as forum」という二つのミュージアム観を提示し後者を採用するわけだけれども、日本は依然として前者の感じが強いんだよね。圧倒的にミュージアムは後者の方が社会的な位置づけとしては良くて。というのもミュージアムは志向性が強いマスメディア、つまりテレビやネットのように偶然見てしまうマスメディアではなく、選択しない限りは基本的には見ないメディアなので、社会的に議論を喚起するようなテーマについては、現代においてもっとも向いているメディアの一つのはず。その感覚が20世紀初頭のミュージアム関係者によって既に主張されているという事実の発見は、僕にはとても興味深かった。

最後に、今回の来日は恐らく上述のCivilizing Ritualsの邦訳を担当された立教大学の川口先生が担当されたのではないかと勝手に思っているのだけれども、大変ありがたかったです。一言お礼を申し添えたいです。恐らくあの年代の研究者ではイギリスのEilean Hooper=Greenhill、アメリカのCarol Duncanが英語圏のMuseum Studiesの二大巨頭なので、日本で彼女のレクチャーがきける機会を作って頂いた点については本当に感謝したい。なんとなく来てしまった院生の方もいらっしゃると思うのだけれども、このブログにたどり着いてくれれば、いかに幸運だったかが分かるはず(笑)。という久しぶりに院生に戻ったような、レクチャーの時間だった。

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