最近『映像学』(103号、2020)に田中晋平さんによる『スクリーン・スタディーズ』の書評が掲載された。職場の図書館で購読されていないこともあり、最近ようやく目を通すことができた。共編者の一人としては非常にありがたい内容で、まずは心からの感謝を申し上げたい。そのうえで、それなりに分厚く相当面倒な本を読んで頂いたという気持ちもあり、こちらからもささやかな感謝の返礼を公開しておきたいと思う。
詳細は、ここをクリックして本論を読んで頂ければ良いのだけれども、評価されている点はさておき、田中が指摘した本書の限界は2点あった。一つは、「編者たちのスケッチそのものに進歩史観的な発想が混入されているように思えた」(169頁)という、(基本的には)僕の議論が技術に依存した進歩史観を背景にしているのではという指摘。もう一点は、「映画館という視聴空間の歴史とその未来の考察」(171頁)の不足という論点である。
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これは僕の個人ブログにすぎないのであくまで日記程度のものだと思って読んで頂きたいのだが、一点目については二点補足したい。一つは、何を前提(文脈)として「スクリーン」概念の時限性を設定したかである。基本的には、「テレビ、映画→スクリーン→スクリーンレスな映像」的な流れに基づいて「進歩史観」だと指摘されたのだと思うが、少なくとも僕の序論、第一章の書きぶりだとこの読みに対しても開かれているので、「はい、すいません」とまず謝るしかない。とはいえ、ここで僕が強く意識していたのは、既存の「メディア研究」、そして「映画研究」という名称そのものが、ジャンル依存した研究領域としての安定性に胡坐をかいてきたことに対する問題意識である。ある物質に投影された(リアかプロかホログラムかは別として)映像とモノという水準の設定がより早い時期からなされたとすれば(これも下手すると記号論みたいな理解されそうで怖いが、とりあえずこの二つを設定しておけば、関わる変数の全体像が見えてくるはず)、つまりジャンルに依存した学ではなく、最初から視覚的な何かを対象とする諸変数間の関係性の学として映像の研究があったとすれば、そもそも「テレビの研究」「映画の研究」というような研究の発展の仕方ではなかっただろうという感覚に基づいた枠組みの設定になっているということである。
もう一点は、結果的に時限を区切ったことでむしろ逆説的に大きな話(=進歩史観)として読まれうることにこの書評は気づかせて頂いたのだけれども、「スクリーン」という方法が、ある種、現代社会の映像研究に比較的汎用的に適用されうる理論として理解され独り歩きすることがないような枷をかけるために「タイム・スペシフィック」であることは強調しなくてはならなかった。ただそうすると、当然その限定の前と後が相対的に輪郭を強く持つので、結果的には進歩史観として読まれうるんだなと。これはまあ、いい歳した中年の中二病的な独り言なのだけれども、僕は「方法」という言葉にかなり独特の含意を読み込むタイプで、特にこれは自分の師匠である佐藤健二先生の問題を自分なりに引き継ぎたいからなのだけれども、「スクリーン」が、例えばメディア研究であれば「利用と満足」、映画研究であれば「装置論」のような、今後長く使いうる理論の一つであるというような位置づけにはならないような限定をかけたかったために、結果的に過度に時限性を強調するかたちになったのかなという反省はある。いずれにせよ、あまり進歩史観で書いているという自覚はなかったのでありがたい指摘だった。ちなみに、僕が想定していたスクリーン後の映像の事例の一つは、レーザーによる空中投影だったり、スクリーンはないがプロジェクションはあるホログラム的なものだ。書評内で指摘されている大久保の議論は、ニューロサイエンス系の映像経験だろう。
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もう一点、現代から未来にかけての映画館のありようへの言及の不足という指摘も、その通りだと思う。決して「いまさら旧来の映画館などに議論を費やす必要こそないと判断されている」(171頁)わけではないが、それこそ近年の渡邉大輔さんの業績など、従来の映像研究やファン研究、後あまり詳しくないが恐らくコンテンツ系の研究なかにすでに、田中の指摘したような業績は分厚くあり、改めて本書で手を伸ばす必要もない(同時に、これ以上ボリューム増やすのは無理だったとも思う。予算的にも僕の能力的にも)とはどこかで感じていた。ただし、田中が171頁の後半で指摘しているように、日常からの時間の流れをディレイさせる空間としての映画館のありようは、今後の映画館を取り上げるうえで必要な視点であることには共感を覚える(ただし田中と僕では位置付ける文脈は異なると思うが)。本書は、ミュージアムから続く僕の研究者としての最初のサイクルの関心である「メディアと空間」の現時点での到達点ではあると思うが、一方で同時に常に関心があり、次のサイクルのテーマとなる「メディアと時間」の問題を考えるうえで、日常の時間の流れを遮断する手段としての映画館というのは、議論を始める格好の素材であることは感じており、そこに目配りを頂いたことからも、やはり田中氏の書評は僕にとっては本当にありがたい内容であったということである。
最後に、お目にかかったことはありませんが改めてありがとうございました。直に会う機会があれば、またお礼を伝えさせてください。