本当に何もない夏を迎えている。例年であれば、夏学期の最後に採点を終えると、大体丸一日使って美術館をはしごしてどこかでビールを飲んで一人で打ち上げ。お盆の前後には短くても大抵は旅行をしている。こういった短い「休み」もとれず、日々自宅で仕事するなかで、日常全域に広がる「労働/余暇の区別の無効化」を学期中以上に感じる。医学的には何の診断も受けてはいないが、多分僕もすでに一部壊れていて、この意識の俎上にも上がってこない心身の小さな裂け目は、コロナ禍を克服したとしても僕自身のなかにある種の後遺症として留まり続けるのだと思う。僕でこれだから、学生、そしてエッセンシャルワーカー、さらには当然のように医療従事者の状況は想像を絶することだと思う。とはいえ、最後まで僕に残された余暇が結局読書だった。直接自身の研究に関係するかは分からないが、8月に入って読んだ単行本を幾つか。
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FBで知り合いの研究者が紹介していて、学期中から時間できたら読んでみたいなと感じていた書籍。手に取るまではもう少し神経生理学よりの視覚文化論として読めるのかと思っていたが、むしろ抽象度はさらにうえで、認知科学と実在論といった方が良い。細かな話は専門外なので何ともだが、要は人間は世界の複雑性をそのまま受け止められず縮減せざるを得ないという社会学界隈では良く聞く話を、認知のレベルで実証的な研究をベースにしている書籍。彼は、世界の認知を可能にする「インターフェース」という表現を使っているあたりは、多少僕の研究関心ともつながる部分はあるように感じる。ただし、社会学系の研究者が読むと、一方である種の決定論に傾く危うさは感じざるを得ない部分もあるかなあと。ただし、一人の読書好きとしては、「ああ、結局私の『好み』なるものも、DNAの世代を超えた継承にある程度枷をかけられているのね」という気づきに対する知的な刺激はある。それなりに骨が折れる本。
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冒頭があの本だったので、今度はある程度スラスラ読めるものを思って手を伸ばしたのがこの本。テーマが、なぜ女性が少年を演じるのかというものなので、もう少しジェンダーテイスト強いかなあと思って読んだが、どちらかというとコンパクトでバランスの取れたメディア史の書籍という印象。トータルで10章ぐらいだけれども、ジェンダー要素が強く出てくるのは7章あたりから。中盤までは、マスメディアと俳優の産業史や、比較メディア史的な印象が強い。また、アニメーションの基本的な枠組みや知識を得るのには好著。必ず、アニメ、声優まわりは毎年卒論を見ることになっているので、アップデートする意味でも良い読書だった。ありがとうございました。
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僕自身はこの手の話に首を突っ込む気はないのでいまさらという感じだが、『現代思想』の加速主義特集あたりで大雑把な内容を把握していたけれども、漸く本体にたどり着く。研究室の机に放置して積読状態だったが、先週この感染者数で良くやるなあと思ったオープンキャンパスの際にふと思いついて持って帰る。それだけではなくて、僕自身の直近の研究についての英語論文を読んでいるなかで、フィッシャーが引かれていたというのもきっかけにはなったのだけれども。この本を読んでいるときの一番の感想は、翻訳が読みやすい。いや、元々の英語が明晰なのかもしれないが、えてして社会思想よりの翻訳は「これは無理」みたいな訳にあたることもあるわけだけれども、フォントサイズもありスラスラ読めてしまった。この書籍自体の意義もあるのだろうが、読みながら考えるというよりは、読んだあとどう考えるのかが重要なタイプの読書体験ではあるのかもしれない。資本主義を捨てられなかった(幻想にすがり続けた)行く末がこの夏の日本ではあるとは思うし、世界中の気候変動でもあるのだろう。首都圏のコロナ禍もひどいと思うが、ギリシャの山火事のニュースを見ながら、本格的に私たちは地獄を生きているのだなという実感を強く持った2021年の夏でもある。全世界は祈っても難しいだろうが、せめてこのブログを読むような身の回りの方ぐらいは健やかにこの夏も過ごして欲しい。