少し今年の夏は文章も書けるようになってきたのだなあと。朝起きるとそれなりに精神的には健康な気がするのだが、最近は夜になると少しネガティブな気分になりやすい。僕なんかは全然楽な方なのは分かっているのだけれども、やっぱりこの娯楽のない生活には飽きた。我々はせいぜいコロナ禍の移動できない生活だが、政治的に軟禁下にある人はさらにつらいのだろうなあなどと思う。今日も結局読書日記のようなものなのだが、カルチュラル・スタディーズの書籍を読みながら考えたこと。
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写真で掲載されているのは、ともに2000年代に刊行されたカルチュラル・スタディーズの書籍。それなりの難易度ではあるけれども、基本的には教科書をイメージして書かれたものでもある。左のマクロビ―の『カルチュラル・スタディーズの使い方』は、ケーススタディまで読まないとかなり過度に抽象的。ただし、ケーススタディも当時のイギリスのポピュラー・カルチャーが分からんとピンとこない事例が多いのがネック。こちらは前期の大学院で通読した。
右のクドゥリーの『文化の内側から』(あまりいい訳ではないな)は、なんとなく夏休み前から読み始めたのだが、結局お盆に3日で読んだという感じ。山腰訳で日本でも知られるようになった彼ですし、第一、第二世代の後のカルチュラル・スタディーズのことを考えるとどうしても彼を思い出すわけですが、そもそもクドゥリーが真正面からカルチュラル・スタディーズのこと議論しているのって多分この20年前の本だよなあと特に自身の直近の研究とは関係なく読み始めてしまった。2冊合わせて読んでみて改めて思うのは、で結局カルチュラル・スタディーズって何なのだろうかという素朴な疑問。
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世代的にも、元々自身が人文よりの関心から社会学方面へとジリジリ寄ってきたようなキャリアという点でも、多分カルチュラル・スタディーズの書籍にはそれなりの分量目を通してきたのだと思うけれども、これだけ一定の数の研究者が同一の領域に言及しながらテクストの束のようなものが出来上がっているのにその輪郭がイマイチ掴めない領域って何なのだろうとしみじみ思う。一方で、だから関心が持てないとか意義がないとかそいうことも思ったことはない(「カルスタ」の略称使う人には軽い嫌悪感を持つ程度には親しみがある)わけだし。
何でこんなことを考えていたのかをいうと、近い将来このタイトルの授業を受け持つ可能性があるかもなあという気がしていて、その時に学部生レベルで「カルチュラル・スタディーズとは〇〇な学問領域のことです」と話すときに、何と伝えれば良いのかと悩んだから。そもそも、人によっては「学問領域ではなく知的な運動です」と伝えるべきと指摘する方もいらっしゃるでしょうしね。同時にもう一つの紹介の仕方である「〇〇先生のご研究などが日本のカルチュラル・スタディーズですね」という紹介の仕方もこれから少しずつ難しくなるのだろうと思ったから。というのも、日本の代表的な同領域の研究者は大学教員としては定年の時期に差し掛かっているのは確かなわけで。僕自身は特に「〇〇研究/△△学」の研究者としてのアイデンティティや自負のようなものは皆無なので良いのだけれども、少なくとも自身がカルチュラル・スタディーズと「呼ばれているもの」に触れたことで世界の見え方が多少なりとも変わったのだから、その良さを自分より若い世代に継承することぐらいは責任を負うべきだと思っていたりはする。まあ、悩むくらいなら日々勉強なので、日本の英文のなかでどうカルチュラル・スタディーズが読まれてきたのかを少し調べてみようかなあとは、2,3年ぐらいのスパンで考えている。その成果は論文ではなく、授業ぐらいでしか反映されないでしょうが。