引き続き今年度も何もない夏休み。今年は旅行をと思ったりもしていたのだけれども、夏休み前の急速な感染者数の増加に伴い断念。帰省といっても都会民なので1時間以内に到着してしまうし、海外も行くのは良いが帰りの72時間PCRのリスク高すぎるだろうみたいなこともあり。普通に今年もゆっくり本を読む夏休みでしかなかった。多分、経年ストレス高すぎて(本当にコロナ始まってから、首都圏一度も出ていない)、胃酸過多と過ごす8月であった。ということで、もう、このブログほとんど読書感想文だよね。まあいい、良い子の仲間たち、夏休みの宿題の参考にして下さい…
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夏休中に読もうと思って自宅に持ち帰っていた学術書のなかで、読んでみて研究に役に立つと同時に、単純に読書としても本当に良かったなと思うのが、レス・バックの『耳を傾ける技術』(2007=2014)。彼は、LondonのGoldsmiths Collegeの社会学部の教員で、何となくethnicityに強い(都市/地域)社会学の研究者というイメージを持っていた。僕の母校でもあるのだが、当時まだGoldsmithsにいたMichel Kiethの授業に出ていた時に、ゲストレクチャラーとして一回来てくれたことがあって、あの時もロンドン南部のコミュニティの話をしていたのを覚えている。
この書籍は恐らく三つの文脈で読めるはずで、一つはethnicity、class、youth cultureに目を向けた都市社会学の文献として。二つ目に、Sarah PinkやDouglas Harper等の教科書とは別種のvividな記述としてのvisual sociologyとして。そして、三つ目に特に調査系で学位論文を書こうとしている院生に向けた社会学の教科書としてだ。そのなかに通底している視点は、他者への愛や、無関心から距離を取ることのような感覚だったように思う。どちらかというと、常識を疑うことで僕らが無意識に受け入れてしまっている不条理を暴き出すことが社会学の常套手段であり、ある種の「いやらしさ/性格の悪さ」が付きまとう学問領域である気がするのだけれども、彼の社会学ってはっきりと「優しい学問」としての社会学の道筋を指し示しているし、特にvisual sociologyのフィールドの記述なんかを読んでいると、学術書を読んでいるというよりは、普通に文学や質の高いドキュメンタリーを見ているような感情の揺さぶられ方をしたんだよなあ。すでに重版はかかっているのだけれども、これ社会学にかかわるより幅広い方々に読んで欲しいなと思わされる一冊で。元々、後期の調査系の授業のヒントにと思って読む気になったのだけれども、むしろ癒しを感じた。ちなみに、補遺的な扱いの最終章は博論のガイドライン的な内容だけれども、ここもすごく良いので、博論から逃避したい社会学系の学生はおしなべてこの章だけでも読んで欲しい。多分、救われる。
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一方で、あまり文芸物読めなかったなあと思いながら、それでも夏に読んで良かったのは『晴れ、時々クラゲを呼ぶ』だった。いわゆる青春小説的なカテゴリーには入るんだけど、主人公の二人は、一人は鬱屈していて、一人は(一見)不思議ちゃんなので、王道の青春小説って感じでもない。去年の読書感想文(一昨年かもしれない)では、不覚にも『小説の神様』で涙したことを告白したわけだけれども、これも本質的には「書くこと」をめぐる物語で、自分にとっては「高校生×書くこと」ってほぼ鉄板で何でも感動できるんだということがしみじみ分かった。このあたりは、実際には上述のレス・バックの『耳を傾ける技術』も同様で、彼の社会学には、「書くこと」への執着があるところも優しい社会学だなと感じた理由の一つなのだと思う。
ということで最後にはレス・バックに戻ることになるわけだけど、彼は同書のなかでこんなことを書いている。「〔社会科学の記述における=光岡〕ミニマリズムは、私が思うところの「薄い記述」や「平坦な社会学」になってしまう可能性があり、そのとき失われるのは生や躍動感、そして――こう書くのはためらわれるが――そこにあるはずの美なのだ。私は文学的な社会学を提唱したいと思う。それは社会的な生を殺してしまうことなく記録し、理解することを目指すものだ」(バック 2007=2014:272)と。ここで彼が言っていることは、修辞に凝った文章を書くという意味ではなくて、社会科学の文章だからといって、必ずしも明晰な論理構成だけに注力する必要はないということ。多分、むしろ文章としての簡明さは求めているのだけれども、もし明晰な論理構成に基づいて記述をすることで、「今」「そこに」「人々が生きていること」の豊かさを消し去ってしまうのだとすれば、そこには文学が入り込む余地を十分に考慮して良いという宣言だと思うし、僕は基本的には書くことが好きなので同意できる。それが、書く対象を豊かにし、書き手の望むものならば、論理明晰で簡便な文学があっても良いし、文学的なエスノグラフィーがあっても当然良いわけだから。
ちなみに最後にこそっと書いておくと、夏に訪れた展覧会で想像以上に素晴らしいと感じたのは、SOMPO美術館の「スイス プティ・パレ美術館展」であった。かなりニッチな対象も集めているけれども、広義の印象派系の展覧会で、ここまで見ごたえを感じたのは本当に印象派を見始めた高校生のころ以来ぐらい、一美術ファンとしては楽しめた。夏の戻りを恨めしく思いながら。