2024.01.25

アジ美の「宝の持ち腐れ」が収まるべき文脈

『読売新聞オンライン』に2024年1月18日掲載された記事、「美術館の近現代美術作品が高騰…(中略)…展示スペース狭く「宝のもち腐れ」」が、比較的アート関係者、愛好家の間でバズっている様子を眺めていた。ちなみにバズっている様子だけを見ていて、個々の反応や態度を見ていたわけではない。

ただ、この記事がサーキュレーションすると、「もち腐れ」であることの本質が上手く伝わらないようにも思ったので、比較的これまでのレクチャーで話してきたことをそのままここに繰り返しておこうと思い立つ。

まず、展示スペースが狭いのは記事内でも言及の通り、アジ美に限ったことではない。というか、収蔵庫より展示スペースが広いなどと言う美術館を聞いたことが無いし、そもそも数あるコレクションのなかからその一部を展示するのが展示室なのだから、基本美術館の収蔵品はもち腐れになる。つまり、もち腐れになること自体でアジ美は批判される筋合いは恐らくない。

そのうえで、むしろ重要なのは、「全ての美術館」が持ち腐れを構造として共有していることである。これを、少し簡易化したビジネスモデルとして話してみたい。美術館における現状最大の収益源はコレクションを生かした展示に対する入場料収入である(日本の場合はコレクションは生かせず、企画展の収入である場合も多い)。ところが、この記事の通り、大半の美術館は恐らく1割程度しか展示ができない。これは何を意味しているのかと言うと、おおよそ個々の作品の持つ動員力を平均化したとすると、本来100集められる人数のうち10しか来館者を動員できない。つまり、90%が収益化に回っていないことを意味している。さらに悪いことに、この休眠した90%のコレクションは、必ず収蔵庫というスペースが必要で、なおかつ、常に保存、修復が必要とされる。つまり、場所代、保存、修復のための費用という意味で、休眠どころかコスト転化せざるを得ない。何を言いたいのかと言えば、ビジネスモデル的には美術館は不可避に赤字だということである。ゆえに、ヨーロッパの多くは税金で、アメリカの場合には寄付金を集めることで、何とか運営を維持しているのが美術館である。アジ美も問題かもしれないが、宝のもち腐れ問題は本質的には、ある国で美術館をどう支えるかというかなり大きな幹から派生した枝の一つであって、あまり個別の館の問題として議論すると、そもそも解法を間違える可能性が高い。

二点目に指摘しても良いと思うのが、もし「作品が高騰しているにもかかわらず展示のスペースが不足している」のであれば、一部を売却なさってはどうか?という点である。僕個人は、この点についてはどちらかというと不満をずっと感じているのだが、しばしば「市民の税金を使ってなんでこんな作品を買うのか?」や「その作品を売却するとは何事か?」みたいな話を耳にするのだが、これ税金を投入して購入した財産だからこそ、800倍の値段がつき、なおかつ現在のコレクションポリシーからずれ始めたという条件を満たすのであれば、売却されてはどうかと。法制度的な問題は別として倫理的な話であれば、元々の1倍を返還して残りの799倍をプールし、現在の福岡市の市民にとって最適の作品の購入にあて、さらにコレクションを充実させるとすれば、そこに大きな問題は発生しないように思う。つまり、コレクションは館として展示すべき作品であると同時に、館の資産そのものでもあるということだ。ある意味では、コレクションの価値が上がったという意味では、アジア美術館も福岡市もきちっとした目利きのもとで資産運用に成功したことを意味しており、極端な言い方をすれば、800倍で売却し、1倍は市へ、199倍分は展示スペースの拡張へ、600倍分は新たなコレクション購入にあてるとすれば、近年これほど運用が上手く行っている美術館など欧米と比較してもそうないのではという気がする。同時にこの方向性は、いわゆるアメリカ型美術館における健全なコレクション運用だと言えるだろう。もちろん、800倍になったのは中国の現代美術作品だろうから、全体としてどれくらいコレクションの(経済的)規模が大きくなったのかは分からないけれど。

つまり、今回のアジ美の展示スペース足りない問題は、必ずしも個別の館の問題や、市の税金と公共サービスのバランスの問題へと回収される必要はないのかもしれない。むしろ、美術館というビジネスモデルの持つ本質的な限界や、一方での美術館のコレクションは文化財であると同時に資産でもあるわけだから、その折り合いをどうつけるのかといった文脈へと着地する方が恐らく議論が深まるのであって、文化欄の記事として扱うのであれば、そのぐらいの射程は欲しいと一読者としては思ったのだった。地方欄の記事であれば、このテイストになるかなとは思ったものの。

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