2012.12.07

広島県立美術館の学芸員の展示監視問題に思ふ

本来であれば、「NYその3」を書くつもりだったのだけれども、それなりにとりあげるべきニュースだと思ったので、こちらにも書いておきます。twitterやFBのコメントは断片的だったので。報道記事そのものは、広島市立大学の加治屋先生などがtwitter上にアップしてらっしゃいますが、基本的には同美術館が赤字を理由に期間限定で、学芸員、事務職員をローテーションで監視業務に回すという内容です。まあ、いずれはこういうこともあるかなあと思ってはいましたけれども、懲罰的な扱いで回すのはねえ・・・。これ本筋の話ではないですが、学芸員の方は基本的に自分の展覧会がオープンしたあとも、もっとその展示室に頻繁に通った方がいいというのは基本的に同意です。

でここでの問題は明らかで、美術館の経営的な採算の問題と、その責任の所在のありかがずれているということです。僕はどちらかというと、公立館なので一定程度の税金投入はやむなしとしても、それを含めても採算がとれない公立館は淘汰されるのは仕方ない側面があると考えています。けれども、その収支悪化の責任が、行政からであれ、メディアからであれ「学芸員」に集中するのは筋違いのはずです。もちろん、学芸員養成課程のなかで「博物館経営論」という科目がありますが、基本的に美術館の学芸員の多くはそのexpertiseを美術史や美学に置いており、その専門家としての訓練を受けてきた人々です。その意味では、日本の場合には構造的にそもそも専門性と業務内容がミスマッチなのにもかかわらず、学芸員が経営業務にも参画してきた(と見なせてしまう、これはメディアによっても作られているわけですが)ことそれ自体が、問題の根であるにもかかわらず、その批判が学芸員の職務保護みたいな問題で捉えられているのはさほど建設的ではない。むしろ、既存の日本のミュージアム業界のなかで(今風に言えば博物館ムラとでも言うのでしょうか?)、ミュージアムの経営を専門的技能と認め、その職務を配置してこなかったことこそ問題にされるべきです。

もう一点重要な論点なのは、行政の対応で一時的にせよ、学芸員をおきながら学芸員業務ができないのだとすれば、厳密には博物館法的には「博物館」とよびづらいグレーな状態にあるわけです。だとすれば、そこまでジリ貧の状態と付き合っていくのだとすれば(つまり、一部の展示室が閉鎖されたり、ミュージアムレストランのオープン日が限定されたり、来館者の快適さと引き替えにコストカットへ走る)、なぜ一定のクオリティが提供できないことを持って潔く閉館しないのかということです。地方公共団体に関しては、僕が何か付け加えるまでもなく、指定管理者制度が導入されたことで、一定の市場原理化が進みました。一方でどうみても市場原理的な合理性から考えれば、ミュージアムというのはビジネスモデルとして成り立ちません。だとすれば、文化行政も含め県政の方針として経済的合理性を推進するのであれば、県立美術館はたたんでも良いはずです。特に、これだけ地方を中心としたアートイベントが開催されている今、依然に比べれば県内唯一の美術とふれあう場というお題目の強度は劣化しつつある(さらに言えばその内容の改善はともあれ、地元の方が参加する仕組みも国際展を中心としたアート・プロジェクトの方が整備されている可能性がある)。

一方で、フランス的な「文化」を重視する県政、もしくは県民に対する福利厚生の中核としてミュージアムを位置づける県であれば、経済的な合理性の優先度を落としてでも、優秀な学芸員を集め、時間をかけてよりよいミュージアムを築いていくべきなのではと僕個人は感じています。つまり、県政におけるミュージアムに対する明確な位置づけがないままに、全ての都道府県がミュージアムを備えている横並びの現状こそが問題なのであり、上述のような差異が都道府県にないからこそ、県政における選挙の争点にすらならないのかもしれない(市レベルであれば横並びにならないからこそ、山口市や前橋市の例のように充分選挙の争点になる)。その意味では、今回の広島県の文化行政の対応は、歯切れが悪い。もしこのような対応で少しずつ県立美術館を弱らせていくのだとすれば、それはそもそも美術館が良くなるような対処だとも思えませんし、仮に最終的に廃館の日を迎えたとしてもそこまでに失われる税金に関して、市場原理的な意味からも説明責任は問われざるを得ないでしょう。ということで、基本的にはあまり日本というのは、欧米から輸入した概念としてのミュージアムを持つには、あまり向かない風土なのではと思わされたりしたわけです。

最後に、ただし一点言えるのは、これは僕の観点からのみしか論理的な合理性を持てないということです。僕は基本的に東京で育っていて、東京のアートシーンを見てきているわけで、決定的に地方公共団体における美術館を見る上での肌感覚が欠如していることは間違いありません。その点からの批判は充分されるべき日記だと思います。

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