2013.02.19

僕らはミュージアムが欲しいのか、それとも美術館が欲しいのか?

最近、特に書き込まなきゃというようなこともなく、比較的長年付き合っている書き物の最後の締め作業と年度末の事務作業に追われているのだけれども、たまに見るtwitterのTLではもうまる一月以上森美の『会田』展の話や、それと関連したキュレーターの役割の議論が続いていて何となくウンザリしている。

まあ、幾つかウンザリする理由はあるのだと思うのだけれども、一つは問題起きないとこの話にはならないのかという。この手のことって過去にも幾らでもあったわけで、例えば2004年の横浜美術館の「ノンセクトラジカル」展の高嶺格さんの事前作品撤去の件だったり、2010年の愛知県美術館の「小川芋銭」展の表記問題だったり。海外だとブルックリンの「Sensations」が物議を醸したりと。いい加減に、ミュージアムの一つの機能として、社会的コンフリクトの調整の空間としての位置づけが認知され始めてもいいのではと思ってしまう。それは、学術レベルとか法律レベルとかそういう話ではなくて、もう既成事実化しているでしょうと。いい加減に、「こういう抗議運動があったので、美術館と市民団体の間で衝突が起きてます」的な報道ではなくて、「私たちの社会にはこのような問題がありますが、美術館の展示を通じて更なる問題提起と議論の場が開かれています」みたいな紹介が幾つか出てきてもいいものだと思うんだけれども。例えば、国の顔的な性格を持つ東博でhot issueを扱う展示ばかりだと色々と問題もあるんだろうけれども、それぞれ地方公共団体や私立のミュージアムだったりするわけで。もっと幅があっていいんではないかと。

一方で、もう一つこの手の展開になったときに気になるのは、学芸員、研究者、美術通の方たちがたまに採用する、「日本のミュージアムの場合には、○○が未成熟で・・・」的な海外スタンダードとの比較論法で、そもそも僕らの持ってるのは「美術館」なんで、「ミュージアム」スタンダードに合わせろって言われてもとか、僕個人は感じてしまうことが多い。結局この手の論法は文脈外挿しているだけで、むしろ個々の事例が抱える内在的な問題から目を背けているだけな場合も多いんではないだろうか。僕は基本的には、ミュージアムは西欧近代固有の社会制度だという意識が強いので、同じ英語でもイギリスの「ミュージアム」とアメリカの「ミュージアム」は社会制度という文脈ではかなり違うものだと思っている。だから、まあもし理想的な「ミュージアム」が欲しいんなら、とりあえず日本出るしかないよねという。良くも悪くも日本で美術館に通うことが好きなのであれば、どんな「美術館」が欲しいのかを考えたいなと。

ということもあり、僕の場合はこの手の問題を見かけると、よりミュージアムの制度的翻訳の過程だとか、戦後の再翻訳の過程といった歴史への関心が一時的に強まってしまう。日本の博物館学のなかでも最も優れた歴史を持つのは博物館史の研究者の皆さんの蓄積だろうと思うので、こういう問題があるときこそ、現代的な問題として制度翻訳の歴史を問う場が増えればいいのになあと思ったりするのである。

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