2018.06.30

本当に僕たちは美術館を必要としている?

今年度は本当に色々と研究外業務が忙しくて、あまり時事ネタを追うことができないのだけれども、ずっとどこかで気になっていたのが、「リーディング・ミュージアム」についての一件。僕のような立場であれば、本来的にはきちっと資料を精査してアカデミックな議論を別途すべきなんだろうけど、ちらっと書かれたものを読んだ範囲で感じたことを生煮えエッセイとして残しておこうかなと。

報道自体は5月の半ばに『読売新聞』から出たわけだけれども、その元ネタになっているのが「アート市場の活性化に向けて」という文化庁の資料。ざっと通勤電車のなかで目を通したものの、記載内容はこの資料単体としてはロジックは通っているという印象。確かに、現状日本は国の経済規模の対してアートマーケットは小さいし、これは僕なんかも外部のレクチャー等ではこの10年同じことを話している。ただ、GDPを指標としていいのかは留保すべき点があるけれども。ニューヨークやロンドンに比して東京はとは言えると思うけど、マーケットの話をするときに、都市から地方の市町村までを含めたかたちで良いのかは分からん。ここではかなりアート・バーゼルについても言及されているんだけれども、アートの場合には、これだけオンラインで売買する基盤があるにもかかわらず、可能であれば実際に自分が乗り込んでモノを見て買うという行為への執着もまだ残っているので。

この報道に対する批判として強かったのはおそらく美術館が市場活性化に従属するエージェンシーになるべきではないというものだったのかなと思うのだけれども、この資料にはそこまで商業主義への従属が書き込まれているとは感じられないし、作品の流動性が低いということはその通りなのではないかなあと思う。二択で選択しなくてはならないのだとすれば、市場は小さいより大きい方が良いし、後者はかなり判断が人によって分かれるが、原則僕は美術作品の流動性は高くて良いと思っている。

前者については、アートも美術館も僕らが支えるというコンセンサスが日本にあるのかという点はもっと議論されるべきだと思う。現状日本のアートという社会は、今回対象となった美術館や市場だけでなく、数多くのNPO、芸術祭の運営組織、ボランティアといった異なる立場の人々の参画によって支えられている。一方で、彼らに十分な経済的報酬が支払えていないのが日本のアートを取り巻く現状でもある。苦労してNPOを立ち上げた第一世代も、日々の事業を回すのに手いっぱいで若い世代を育てられていない。これは単純に補助金の額の大きさも十分でなければ、それが人件費に必ずしも回せないといったような点に起因する。同様に、芸術祭も、基本的には限られた予算のなかで大量のボランティアなしには運営が行えないし、そもそも専門性を持つアシスタント・キュレーター群も、ほとんど季節労働者のようになっている。これらを解消する最も簡単な方法の一つは、市場を拡大すること、つまりアートにかかわって流通するお金全体の額を増やすことである。

それができないとすれば、必要な資金は公的な資金を投入するしかない。ただ、その覚悟が今の日本の社会にあるのだろうか。僕個人は、ミュージアムについての著書も書いているし、個人としても美術館の愛好家だと言えるだろう。一方で、だからといって現状の数の日本の美術館が必要かと言えばもっと少なくて良いと思うし(より正確には美術館に関わる制度設計については変更の余地があると言えば良いのかな)、もしわれわれが選択した政府によって、文教、文化政策として美術館のない国を目指すという判断がなされれば、その政策に従うほかないとも思っている。それは神が決めることではなく、現状の制度では合法的に選択された(民意として)政府が決めること、つまり僕たちが決めることだからだ。

もしミュージアムの社会的役割が、全美の指針のように後世に貴重な文化財を伝えていくことだとすれば、それは同時に恐ろしく経済的には非効率な営みであることはあまり話題にならない。ミュージアムを経済活動を行うエージェンシーと考えた時、メインの収入を獲得するのは展覧会事業であるが、そこで展示できる作品は収蔵品の1割もないだろう。つまり、収入を生み出す資源が10あるとすると、そこで実際にサービスとして提供されているのは1もなく、9も実は収蔵庫で保存され、さらには修復が繰り返されることでコスト転化することになる。いわば、お金しか食わない万年赤字制度なのである。

もちろんその通りなので、この赤字をめぐっては、大きくは国家、自治体が税金で支えるという方式と、市場からの資金調達(あくまでコレクションポリシーに基づくが)や企業、富裕層からの寄付によって支えるというかたちを現代社会はとっているのだが、前者は、やはりコンセンサスがないと難しいと思う。具体的にはフランスは、国家で文化を経営するというコンセンサスが他国に比して相対的にかなり高い国だからこそ、国が美術館を支えることができる。

一方で、日本でそれが可能だろうか。美術館に予算をつけるということは、すなわちその分どこかの予算が減額されることを意味する。そして、現状文化庁が文科省の外局であることからも分かる通り、美術館の予算は多くの場合文教予算の一部となっている。つまり、美術館に回す予算を減額することで、通常の教育予算を増加させることができる。では、例えば、ある地方自治体の美術館の予算を億単位で増加させたいと考えた時に、その予算で老朽化した小学校の耐震補強が3棟可能です(具体的にこれが法的に可能なのかは分からんので、お詳しい方教えて下さい)と言ったとき、その自治体の住民がどちらを選択するだろう。それは問題のすりかえであると言う指摘はある程度まで正しいと思うが、公的な資金で美術館を支えるということはこういうことである。

僕自身ですら、この選択肢であれば、自分が美術愛好家であることを差し引いても予算の使い道として耐震補強が望ましいと考えている。それでも美術館は支えたいので、税金とは別に、membershipを購入したり、好きな美術館を訪問するときの一回の単価を上げたり(実際、僕はチケット込みで1回の訪問で原則3000円は美術館でお金を落とすようにしている)することで、あくまで個人の意志に基づいて美術館を支えるという選択をするだろう。そして、もし今よりも所得が増加するとすれば(し、今もアートフェアや美術館で良く悩んでいるのだが)、作品を購入するというかたちで美術、美術館を支えたいと考えるようになるだろう。こういったアートファンを増加させることが、基本的にはアート市場の活性化のはずであり、それはあまりマイナスばかりの方策だとも言えないだろう。

今回の案に対して批判が強かった理由、特に有識者からの批判が強かった理由は、あまりに自分が知っていること、もしくは目の前にしてきた現状にとらわれ過ぎていないだろうか。アメリカの行き過ぎたコマーシャリズムを目の前にしてきたアーティスト、美術批評家にすれば、あたかも市場に従属するかのように見える今回の案は批判の対象となるのは良く分かる。しかし、現状の貧弱な市場状況からすれば、必ずしもアメリカのモデルには行きつかないビオトープのような美術市場を生み出していく可能性もゼロではないのではないか。彼/彼女らも今回の案は批判していても、一方で市場が小さいことで生まれている、主として日本のアートの労働環境の現状の深刻さについては広く共有されているはずだ。恐らく、この件を通じて僕らが考えるべきなのは、ただ文化庁から出てきた案を批判することではなく(まあ、最終的な閣議決定にかかわる人々があんな感じなので非常に不安になったり批判的になったりするのは僕も良く分かる)て、これをきっかけに僕ら自身が美術館を含めた、美術にかかわって異なる立場のエージェンシーとそれを支える、経済的、社会的制度の設計についてともに議論したり、その必要性をよりひろくアートに現在関心のない人たちにも共有してもらう努力なのではないか。この問題は、大学の教員や官僚や、アート市場の利害関係者が議論すれば結論が出るようなものではない。僕たち市民にとって、少なくとも今住んでいる日本という国で、アートとどう付き合うのかを広く議論するための叩き台に過ぎない。

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