2020.02.25

久しぶりに読書

今月は、ほぼ20か月ぶりに本を含めてインプットのための時間をまとまってとることができた。職場の持ち回り職が3月で任期を終えるからである。僕のまわりには行政職のなかでも旺盛な研究意欲を保てる心から尊敬すべき研究仲間もいるのだけれども、正直もう研究者でいるのか、学内行政職に向かうのかギリギリの気持ちには昨年末陥っていた。

ところで、僕は比較的英語読みの研究者という分類になっているんだろうけれども、その背景となっている知識として不足し始めたなという感覚がこの1,2年あったので、今月は久しぶりに大陸の研究者の訳書を読んでいた。今朝読み終わったのが、ピエール・レヴィの『ポストメディア人類学に向けて』(1994=2015)で、その前に重い腰を上げて読んでいた『技術と時間』に比べるとはるかに読みやすかったのだが(というかあれ1周で理解するのとか無理)、本筋とは異なる部分で気になる一節があった。以下の、

《大地》においては、一人の老人が死ぬ時、それはまさに一つの図書館がついえるということである。(レヴィ 1994=2015:273)

である。この節は、本書で提示される四つの世界観の認識論の章で、僕の関心だと知とその共有、変容を支える技術的インフラの話のような視点から読んでいたのだが、これ情報社会(現代ね)に該当する《智慧》の空間でもそうだよなあと感じていた。最近、博物館の危機本が日本では出版されていたけれども、どんなに頑張っても知識や記録の集合体って失われていくんだよなと。

一方で(情報)技術の発展は、どこかでバベルの塔のような完全な記録への欲望と連動している。2000年代以降のGoogleのストリート・ビューやアート・プロジェクトはそうだったし、昨年公開された『HELLO WORLD』にもその世界観は反映されている。ただ、そういうの必要かという感覚が僕の場合は院生の頃から強い。図書館としての人もそうだし、ミュージアムも公文書館もそうなだけれども、社会的保存の営みの大半は、その欲求と向き合いながらもいかに捨てるかという決断の繰り返しだからだと思うからだ。

僕らは限られた人的、経済的資源のなかで何かを記録することと向き合っているが、その過程に技術の媒介の問題があって「全部記録できるのでは」という欲求が生まれるのも確かだ。ただ、結局上述に加えて保存の営みに強い限定がかかってしまうのは、僕らが自身が生きる社会における保存対象のプライオリティ、保存の意義そのものから逃れられず、恐らく100年後、1000年後の社会を生きる人々とは異なる「残すべきモノ」の感覚を持っているということだ。だとすれば、僕らはなるべく残すこと、なるべく文化財が保護できる社会ではなく、なるべく上手く捨てられる社会を目指し、その過程が「記録」される社会を目指す方が、未来の人々にとっては感謝されるような営みなのかもしれないなとも。少なくとも、何かを残すことが、いまを生きる人々の日常を過剰に拘束するものであるとすれば、それはある種の暴力へと転換するわけだから。

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